人権というのは対国家の文脈で語られている。
対国家というものが抽象的ならば対公務員と具体的にイメージしてもよい。
この基本線がみえていないと人権問題は理解できない。
理解できないというのは国際的に通用する文脈に乗れないということだ。
国際的にというのは自由主義陣営とほぼ等しい。
アグネスチョウさんが釈放された。
一安心である。
彼女のような若い人が国家権力に拘束されて青春時代を無駄にしてはいけない。
普通の女の子ではないか。
我々民間人が気をつけねばいけないことは公務員の権力乱用である。
この問題こそが人権問題の核心である。
政治問題について誰が判断し決断し実行するのか。
憲法と法律によって権力を正当化されている公務員が行うのである。
政府に危機を煽られて身分保障がある公務員と一緒なって騒ぐことは民間人としては人権を放棄する行為に等しい。
中国共産党に対する対応についても国民が公務員に職権発動を要請するというスタンスがあってはじめて自由主義が貫徹されるのである。
ここをよく分かっていないと民間人の保守主義はただの国家主義のしもべに成り下がるだけである。
香港をみていれば人権というものがよく分かるのである。
アグネスチョウさんが主張することは日本では自明過ぎておりむしろ耳にタコができていることばかりである。
しかし、それがいかに大切なことであるか彼女をみれば分かるだろう。
誤解を恐れずに言えば、若い子に政治に関わらせてはいけない。
それはまず我々大人が引き受けねば。
なぜなら政治には憎悪が宿っているからだ。
それに組み伏せることができるのは、修行した大人しかいない。
若い子の理想は太陽のように明るい。尊い。
大人はそれをみて力をもらいながら戦うことできる。
それが幸福でもある。
背中を見せていくことでもある。