都合のいい結果が出れば、それまでの過程が正当化されるわけではない。
ここ20年、多くの日本人は本当にくだらない結果主義というものに翻弄されてしまったと思う。
既成事実が出るとぐうの音も出ないような体質になってしまった。
人間は完ぺきではない。
それゆえに努力という過程をみてそこに人格をみてきた。
皮肉にもこれは年功序列的な発想と重なるところがある。
生産性という言葉が科学主義とあいまって結果主義を推し進め、年功序列を排するようなったが、その挙句どうなったか。
結局、人自体を大切にしない構造を作り上げてしまった。
何も変わっていないどころか、自滅である。
ただ、仮に年功序列を進めていても結果は大差なかったかもしれない。
なぜならば、人を根本的に腐らせてしまったのは飽くなき物欲と拝金主義であるからだ。
その物欲と拝金主義が結果主義を生み出してしまったともいえるだろう。
必然の流れだったのかもしれない。
堕落した者に年功などあるはずなく序列を語れば混乱しかなくなることも道理であろう。
この軽薄で有害な結果主義は人間の万能感からきている。
すべて認識できると思い上がっている。
ここは共産主義思考と重なる。
科学万能主義だ。
結果主義から脱却するために必要なことは制度の改革ではない。
制度上の改革は出尽くしたといってもよいのではないか。
たとえば株式会社などにかかる会社法などはもう打つ手はないだろう。
監査等委員会設置会社までである。
笑わせてくれるのが平成26年あたりから進めてきた投資家の目たる社外取締役の設置強制に向けた努力が実現された今になって弊害の芽となりつつあることだ。
もはや制度をどう変えようとも、人々の行動の源泉に物欲と拝金主義がのさばっている限り公正さというものは確保できないということである。
これからの時代は霊性という視点がキーになってくる。
もはやそこにしか活路がないからだ
ただ、霊性と私が言ったとしても、それは官僚化されてしまった宗教団体を擁護することではない。
また、統一教会のように敵をも愛するといいながら訴訟をするような団体に本当の信仰心が宿ることなど絶対にないことも確認しておく。
保守といえば共産主義を排するが、そこには人間の不完全さに対する自認と科学でははかることのできないものへの畏敬があるからだ。
政治としてはそこがなければ悪しき個人主義と戦うことはできない。
私は保守であるが、霊性を重んじる正統保守である。
とにかく節制が大切であろう。
節制された生活によってのみ霊性は鍛え上げられる。
節制する者だけが年功を語る資格を得る。
物欲と拝金主義を排するならば、その生活の外延は節制する者のみが知り得る。
これは論証が及ぶ世界ではない。
次元が違うのだ。
具体的な常の実践だけが語る世界である。