最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

貫いていく尊さは体験を通してのみ知ることができる。

朝夕の読経は欠かさない。

どれだけ眠くても体調が悪くても欠かさないことを目標にしているからだ。

いろいろな心境を体験してきている。

とても見晴らしがよく生き生きと読経することができる時もあれば、心は上の空という状況で文字だけを追っているような時もある。

必至になっても妄想で心が乱されたまま読経することもある。

 

しかし、通って道とはよく言ったものだ。

振り返ると一筋の確固たるものを堂々と感じることができる。

これこそ確信というものなのだろう。

誰が来ようとも「はい」といえる境地である。

 

ただし、まだまだ深まりが足りてないようにも思っている。

一回一回にもっと真心が込められるはずなのだ。

たとえ時間に追われていたとしてもだ。

以前に一度記事にしたが、私は葛西りまちゃんと船戸結愛ちゃんとは毎日読経中に会っている。

彼女達の存在の引力のおかげで私は読経ができるのであるが、彼女達にしてみたら自分は非力で頼りないところがあるだろうなと自省する。

 

光あるうち光の中を歩めではないが、光の中にあればあとは実直に自分のペースで確実に進んでいけばいい。

しかし、やはり上には上がある。

それを自然に感じた時は謙虚に受け止めて学びの糧としていくことはさらに尊いといえるだろう。

とくにこのご時世である。

いつ命が尽きるかも分からないのであるから、なすべきことをなしたといえるまでに全力を尽くす方がよいだろう。

 

武漢コロナの影響で尊い法要などには参加できない状況である。

これは神仏からの試練と考えるべきだ。

今は個々が試されている。

人の見ていない所でこそ精進を深めていく。

子々孫々に仏の教えそして師の教えを継承していかねばいけない。

これが聖使命である。

そのためには何よりもまず自分自身が法に生きねばいけないのだ。

仏法未だ滅びず。

混乱した時代においてもなおそう言える生き方をすることが天道精神に適うのである。