かなり近い時代まで社会を守るために子供を生贄に捧げるという風習があったと聞いている。
このような社会には個人という概念そのものがないのだろう。
つまり自由主義という思想がないということである。
この辺りの論理の運びは基礎中の基礎であるが、意外なほど曖昧にしている人が多い。
この自由主義を確立するために民主主義があり憲法が制定され権力機関が誕生するのである。
そして、その過程を社会契約説が支える。
社会契約説はアメリカの建国に採用された説である。
この思考は中国共産党と切り合う際に西側陣営が共有するひとつのパターンである。
知らないという人は理解しておかないと戦場に参加すらできない。
憲法と法律の違いをスラリと答えられるだろうか。
中国共産党のいう法の支配と我々の法の支配とは意味が違うのである。
コロナ感染者を差別する心理とその生贄は遠縁であろう。
感染経緯は問題にされてよい。
夜の歓楽街や旅行で感染した者が社会から弾かれることは健全であると私は思う。
ただし、制度としてその者に復活の機会を与えることが条件である。
それが文明社会というというものである。
一方、仕事等やむを得ない事情がある場合は、社会は寛容であるしかないだろう。
もしその場合に差別することを許せば社会そのものの否定に繋がることになる。
耐えねばならない理不尽というものは信心信仰をもって乗り越えていく他ない。
人間知の限界を踏まえればその道こそが王道なのであるから。
武漢コロナ不況、自然災害、中国共産党、この三巨頭が相手である。
戦い方がある。
皆それぞれに役割が違うはずなのだ。
この8月の過ごし方は極めて重要であると霊感が警告する。
性エネルギー昇華の実践はむしろせざるを得ない時期に来ている。
つまり神仏との繋がりを強固にしていくということだ。
個人主義を自我の主張のために利用すれば差別に通じることになる。
西側陣営に活路があるとすれば、豊かな精神文化を個々人が自発的に自由主義の核におくことである。
その結果して政府の活動を適正化していくのである。
自我の主張の為困っている弱者を社会の生贄にしていくやり方ではもう社会は持続しない。
今中国共産党にその弱点を突かれているのだ。
我々は国民主権であることにもっと誇りを持って行かねばいけない。
そして個人主義の核として性エネルギー昇華の実践をしていくことで一人で何十人分もの働きができるはずなのである。
太陽の如く輝きを増していこう。