以前、病床にいる数学者の話を書いた。
病に伏していても淡々と数式の確認をし自分の役割を全うする人として紹介したと思う。
今求められているのはそういう生き方である。
緊急事態であってもやることは全く変わらないという本質を覚知できている者だけが瞑想者である。
自分だけは助かりたいと必死でもがく人間は六道に輪廻して魂はやり直しを求められる。
これは外から見ても分からないだろう。
なぜなら瞑想者であっても現象としては必死に生きているからである。
しかし、その本質を覚知して御仏の誓願と共にあろうとする者とそうでない者との心得の差はまさに天地の差なのである。
これが物質主義者には絶対理解できない信心信仰の宝というものである。
読経を必死にやっても自らの利養のために行っては御仏には通じない。
感染しませんようにというのでは大方単なるお願いである。
こういう神仏を召使のように扱うご利益信心は子々孫々に禍根を残すといわれるが、おそらくその通りだろうと思う。
本能の働きがあるため必死でいることを善と勘違いして自省のないまま突っ走ることの恐ろしさがあることを是非覚えておいて欲しい。
これは多くの宗教家が俗信の誤りとして指摘するところではないだろうか。
イロハのイである。
御仏はご自身に近い所にいる者から救ってくださる。
日常を継続できる者こそ真の強者だ。
体調がよかろうが悪かろうが関係ないのだ。
その時その時できるベストを工夫する生き方の中に中庸がありそれ自体が道であるからだ。
心を柔軟にし状況を許し受け入れていく摂受の精神を達成することは容易ではないが、パラリンピックの選手たちがいつも手本をみせてくれているように活路は必ずある。
日本はダメになると騒ぐ者たちがいる。
確かに今の政界の判断は愚かとしかいいようがないからそれ自体は正しいだろう。
しかし瞑想者からすれば、それでも終わっていない、である。
正しい修行を重ねていけば必ず智慧と福徳を荘厳できるのであるから、一時の変化に恐れおののきいちいち大騒ぎする必要など全くないとしか言いようがないのだ。
混乱の先に目をやっていく。
先を明るく見ることが信心信仰者のこれは聖使命である。