最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

熱波で50度という環境に身を置けるか

インド北部で熱波50度。

肉体の限界を超えている。

これである。

これが日本にもくると私は思っている。

こうなったら六感はもうあてにならない。

それはどういうことか。

祈りを祈りとしてもはや感じられないということである。

やりがいとか生きがいとかそういうものは意識の上では忘れてしまうかもしれない。

ただ苦しいという肉体の悲鳴だけになるかもしれない。

 

しかし、八識という祈りの実体の核は不動である。

七識というものを普段から精錬しておれば、善因の因縁勢力によって先に進めるだろう。

このブログではここを目指しているのである。

だからこそ基礎の基礎を欠かさずに愚直に繰り返す。

それは格闘家や武道家が型を学ぶのと似ている。

とっさの判断より前に心身が動くことを目指して反復反復修練するのである。

確かにただ一度の真実の祈りさえあればよいのかもしれない。

しかし、未熟な者にとってそれが思うようにいかないことは修行者ならば皆分かっていることではないだろうか。

常に向上を目指し油断してはいけないと私は思う。

 

死は一つの変化でしかない。

ここをしるだけでも相当の疑心を破らねばいけないが、魂は再び見合ったところへ向かうのみなのだ。

一切の偽りは暴かれ語ではなく義としてむき出しになる。

魂の境涯そのものしかない世界だろう。

 

肉体が滅びる前に本物の豊かさを手に入れておかねばいけない。

それは御仏に真実帰依することのみである。

思えばシンプルなことである。

しかし、これ以上の仕事はこの世にはないのである。

課題は常に身近にある。

私も激闘中だ。