最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

身軽になっていこう

尽く政府の施策が的を外している。

昨日の記事にも書いたが、政府の失策の犠牲にだけはなってはいけない。

 

明日行楽地に向かう連中がテレビに映るだろう。

それを自宅でみる者と世界は二つに分かれることになる。

そんな大袈裟なと思うかもしれないが、これは脳の物理的構造の違いがもたらすものであり、おそらく種そのものが違う。

 

これからは正しい教えに基づいて堂々とその見解のまま生きることでよいということだ。

相手の立場を慮ることが根本を歪めることに繋がる時代になってきたからである。

機根をみるとこと機嫌をとることは全く違うである。

 

種の違いがある。

乗り越えられない思考の差である。

人に迷惑がかかろうがお互い様という発想なのか、これくらいなら大丈夫だろうという甘さなのか、それは知る由もない。

しかし、もう迎合する必要はないだろう。

 

私のような者は彼らからすれば煙たい存在かもしれない。

しかしもうだからといってそのために行儀よくしておく必要性はなくなった。

というより、本質の観察をすれば、そもそも必要性はなかった。

私のミスであったともいえる。

 

世界は二分化されていく。

これは確かである。

注意せねばいけないことは魂を暗くしていかないことである。

違う人々を道義的に責める必要は魂の成長という観点からは全くないのである。

ただ、それは人間の社会性からのみ語られるべき限定された議論にすぎない。

 

身軽になっていけばいい。

徹底的にだ。

言葉は相手の仏性にダイレクトに伝えていこう。

嫌われることはもう全く問題ではない。

人生を充実させていこう。