最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

その正しさの担保は何か

これからの時代は権威はもう役に立たない。

言動一致しかないだろう。

 

昔の身分制はもしかしたら遅れた制度ではなくて人間の弱さを先取りした制度だったのかもしれないと思うことがある。

農民に生まれれば農民として生きる。

悩むなと。

武士に生まれれば武士に生きる。

悩むなと。

悩みの種になりそうなことは尽く時の権威によって社会的に統御されていたようにみえる。

 

しかし、やはり身分制は正しくはない。

なぜなら魂の成長は自律的であってはじめて生じるからである。

他から強制された生き方の中にあっては限界があってもやむを得ない。

 

現代はどうだろうか。

個人の自由が叫ばれる中でただ欲楽に溺れている者も多い。

欲しい惜しいの連続で自らの苦痛を避けるためには略奪すら行う。

都合が悪くなれば、合言葉は「人それぞれだろ」、言い返せなくなれば、合言葉は「上から目線はやめろ」である。

貴重な自由主義という人格価値の根幹にかかわる叡智も現代では人の欲望にまみれその本質がみえなくなっているといっていい。

 

自制できる者は少ない。

しかし、これからの時代は自制する者のみが言葉を話すことになる。

そして乱す者から言葉は離れていくことになる。

言うように行い、行うように言う。

ここにきてはじめて魂の居場所が整うのである。

これを魂の自律と言い換えてもいい。

自制すなわち自らの心を自らで御しそれが正しい祈りが合致した時、今の生き方でよいと足るを知りそう自ら思えるのである。

悩みはないのである。