読経の威力を痛感する時がある。
全身に電流が走ったような感じになることがあるのだ。
そして、とても心境が新たかになる。
この感じはもう理屈ではない。
論理でしっていくものとは全く違う。
心が穏やかに軽くなるのだ。
救いであると思う。
人生で苦しんでいた青年時代、一番腐っていた時に祖母を失った。
あの時は腰が砕けるほど寂しい思いをした。
なんで自分はもっときちんとしていられなかったのだ!ということを悔やんだ。
心を清浄に保つことの大切さである。
肉体をもって生きている以上、不断の精進が必要なのだ。
私はそれを怠っている時に大事な祖母を突然失ってしまった。
信心信仰をするために知識の量はあまり関係ないと思う。
もちろん修学は必要であるが、それは独善を排するためであるように思う。
毎日少しずつ繰り返し繰り返し決めた聖典に目を通す習慣は大切である。
読経もその一部である。
そして何より大切なことはそれを糧としてそのように生きる努力をすることだ。
その努力の中にいわば霊の交流がある。
怠らずに精進する理由は、大切な瞬間がいつくるか分からないということもあるだろう。
今日はいいかという油断である。
この小さな油断は御仏の観点からすると大きな油断である。
愛別離苦、怨憎会苦、様々な試練があるのだ。
結局ところ、どうしたって身近な人は大切にしておくべきということになる。
感情や葛藤の濁流を教えもなしに乗り越えられるものではない。
承認欲求を満たすための努力とは違う。
すべてが御仏と自分自身との関係におけるものである。
そこには他者との勝敗というものもない。
大乗利他、それだけの純粋な道である。