正義マンという言葉がある。
確かに、義憤が暴力に向かうのは通常はよくないことだろう。
しかし、私利私欲を当然視している者達の横暴に対してただ黙ってみているだけというのも情けない話である。
誰にとって正義マンが鬱陶しいのか、こんなことは自明なのである。
義憤に倒れた者が正義マンと呼ばれ蔑まれている。
なぜ義憤に倒れるのか。
それは内なるコスモの神髄を理解していないからである。
自らの不完全な正義によって自らが裁かれるような愚を犯しているからである。
この失敗から離れるためは、具体的には、読経と断酒と掃除片付けと性的快楽の放棄の4つの前提を揃える必要がある。
(ちなみに性的快楽の放棄と呼吸法には密接に関係がありそうだ。)
こいつは面倒くさい奴だなと思われることを気にする必要はない。
教えに即して正しい思考正しい行いをすることがただ肝要であるだけである。
なぜそれでよいのか。
それが相手の仏性の急所に直接叩き込むことだからである。
本当の慈悲慈愛であるからである。
この場で教えを説くか?!という人もいる。
しかし、これは驚いた私が間違っていたことがほとんどである。
先ほど書いた4つの前提を整えるためには神仏への帰依が絶対不可欠である。
神仏への帰依が自らの可能性の源泉である。
これを大乗戒の本質と呼ぶこともできるだろう。
そしてこれが究極のコスモの神髄である。
何度失敗しても神仏への帰依さえ崩れていなければ何度でも立ち上がることができる。
その都度少しずつ大きくなっていくだ。
倒れない正義マンになっていかねばいけない。
このブログの読者は太陽のコスモを担うべき黄金聖闘士である。