結局、すべてが清浄の為の修行ではないだろうか。
湧き上がって来るすべてを積極的な智慧によって清浄なものへとしていく。
小さな欲はより大きな欲によって包摂し新たな意味を与えるができるのだ。
その大きな欲というのは菩提心である。
小さな欲に対処するための気配りに執着するとただ苦しくなる。
その気配り自体は正しいのであるが、それがより広い見地からなされたときには突き抜けたようになっていける。
以上を少し具体手的にあてはめてみよう。
掃除なども小さな気配りだ。
しかし、生活する以上すぐに汚れていくものである。
きりがないという現象がある。
ただ綺麗にしたいという小さな欲によってはこの終わりのないように思える現象を克服はできないだろう。
そこで、この現象を信心の向上の一資料にしようと心を切り替えていくのである。
そうすると掃除自体にもきりがないという現象自体にも全く新しい意味が生じてくるのである。
こうなってくると日々の掃除が全く苦しくなくなって新しい発見ばかりになるのである。
秘訣は常に神仏への帰依によるスウィングバイである。
これはどんなことにも応用できるのだ。
私利私欲という小さな欲をいちいち個別に否定することよりも神仏への帰依という見地からより大きな欲をもっていくのである。
これにより細々としたことに対する執着が消え適時に行動する習慣が芽生え心に清浄さが漲って来る。
これは理論ではアプローチできない。
体験によってのみ会得できる奥義であるといってもよい。