最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

いかにして六道の輪廻から脱するか

吉凶を占うようなことは不要である。

分かりにくいかもしれないが、大衆の思念による圧力が予定されているのでない限り数字や方角などはまず気にする必要はない。

とりあえず避けた方がよいのは、たとえば13日の金曜日や友引といったように要するに人にチャチャを入れらそうな可能性がある場合だけである。

無駄に目立つようなことはやめておこうという程度のことである。

また、吉凶それ自体が六道の範疇の事柄でしかない。

 

運が良いか悪いかは結局その人の業と縁による。

因果律しかないのだ。

したがって、常によい因を作っていこうとするのが仏教徒の基本的な在り方である。

吉凶にこだわればこだわるほど悪因になりかねない。

私は予言というものは菩提心にプラスになるようにしか受け取らない。

 

とにかく万事受け入れていくことが肝要である。

智慧の開発に従って自らの器も広がっていく。

器を広げていくことが修行の主たる目標ではないかと思う。

 

何か自分に都合が悪いと感じると腹が立つ。

これが輪廻の大方の相ではないだろうか。

自我の力みでは恨みや愛着は解けない。

どんな技や術をもってしてもだ。

すべて御仏様のご慈悲と感じられるまで祈りに徹していくことでしかこだわりというものを乗り越えていくことはできない。

 

反発心がよくないということだ。

ここは勇気が要ることがある。

誰しもあいつだけは許せないという人物が一人や二人はいるものである。

それが身内であるならばなおのこと厳しい。

しかし、万事受け入れていくことしか道はないのである。

受け入れるとは許すということでもある。

許せるか否か。

それは神仏に帰依できるか否かと同義であると私は感じている。