最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

行動する瞑想

さて、掃除の修行はそろそろ終了だ。

改めて気付いたことだが、抜本的にやらなければやり直しを迫られる時が必ず来るということ。

もちろん人間の力で行うことに100%はない。

しかし、嘘に嘘を塗り重ねるような気持ちで事にあたれば必ず破たんするのである。

祈りも同様であるように感じる。

御仏との絆を偽装するようなことをすれば形式がどれだけ整っていようとも必ず失敗するということだ。

掃除とは慚愧懺悔である。

慚愧懺悔とは掃除である。

 

大掃除を経るたびに掃除のポイントが増える。

しかし効率がよくなるのでさほど苦労は増えない。

これの繰り返しなのだろう。

こうやって磨かれ器がひろがっていくのだろう。

怠らず励む。

 

未婚の青年は恋人と結婚するかどうかを決める時は掃除を一緒にするといい。

そこにその人のすべてが出る。

もちろん自分自身も隠せない。

大きな視点から段取りを組くのが上手いとか、細やかなところまで気が行き届くとか、観察してみよう。

掃除を嫌がる人とははやいうちに別れた方がいいだろう。

これは冷たくはない。

躊躇があるのは単なる情の絡みに過ぎない。

ただし、反省の痛みは自らが堂々と受け止めねばいけない。

自分の責任である。

 

さて、そろそろ着替えて外に出るつもりである。

手始めに草取りからだ。

そのあと少し鍬をもってみようと思っている。

私はひそかに筋トレの目的も秘めている。

(これから流行るだろう。室内トレはもう古い。)

 

今日も朝から瞑想の状態が続いている。