最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

性エネルギー昇華秘法を読んで思うこと

出家している方であるならば、大切な法要の前には必ず精進潔斎をされる。

それが年に10回以上はあると思われるので、一年の三分の一以上は精進潔斎を通して性エネルギー昇華の実践を意識せずしてされているはずだ。

さすがに性エネルギーという言葉は使わないが、精進潔斎の概要の説明では必ず性には触れている。

何を言いたいかというと、やっている人はきちんとやっている。

世の中まともな奴は一人もいないと嘆くのは早計で、かなり少ないが立派な人はいる。

性エネルギー昇華の実践などしている人はいないのではないか?と疑念に思われている方のために指摘しておきたいと思うのである。

 

さて本題。

性エネルギー昇華の実践だけを独立に行ってもあまり意味はないのではないか。

私は五戒のうちの不邪淫戒の効用としての性エネルギーに着目している者であるが、すでに何度も指摘している通り、不飲酒戒をはじめ他の戒との関係も重視する者でもある。

 

グーグルで検索すると性エネルギー昇華秘法としていろいろやり方が書いてある。

http://www8.plala.or.jp/KgnosisAC/sub3-s_ene_e2.html

少し感想を書いておこう。

一つ目、超能力を志向しがちな点はとても危険。執着によりアストラル体がむしろ傷つく可能性が高いだろう。超記憶などは引き込む力が強い。

二つ目、マントラについても法流血脈から外れたところに相承などないので、空の電池のような行であろう。

私がそのカナダ人なら無視する。

身内に真言の僧侶がいるが、得度受戒する前に勝手に理趣経あげていたところを強く先輩から叱られていたのが思い出される。

勝手にやってもダメなのである。

お経や真言には音調がありそういったものすべて込みで師から受け継いでいくところに密教の特徴がある。

勝手に探究しても全く無駄である。

 

性エネルギー昇華秘法は、キリスト教やらヨガやら密教やらの寄せ集めといった印象であるが、少なくとも秘法と呼べるようなものではないだろう。

もしその行の目的自体が正当なものであるならば、竜樹以来の大乗利他の精神にまでさかのぼることが可能であろうから、超能力などに期待せずに智慧による解脱を求めるべきである。

そして、他の持戒との協働により普通の人になれるように精進すべきだ。

何か特別なことを目指そうとすると、最初から脱落することになる。