最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

これからの時代を乗り越えるには神仏の道しかない

恐れて慌てると書いて恐慌という。

 

武漢コロナの対策は三つしかない。

一つは手洗いとうがいである。

二つは身近な物のアルコール消毒。

三つは免疫を弱めないことである。

 

よく観察しよう。

東京オリンピックの延長が決まった途端に感染者数が増えた。

怪しい話であるが、しかし、その前後で世界が変わったか。

人々が驚いただけで実相そのものはシームレスである。

確かに感染者数は増えているだろう。

しかし、それに対応するようにバタバタとは死んではいない。

(バタバタと死んでいるのであれば、反政府のマスコミは報道するはずである。)

条件を満たした者が重症化する傾向があるだけである。

健康な者にとっては気にする必要がない程度のことでしかない。

少なくとも性エネルギー昇華の実践を励行する者にとっては何の脅威でもない。

 

ちなみに、反対説についての私の見解は以下である。

検査をして陽性反応が出た者を2週間隔離する。

意義があるようにみえる。

しかし、感染者の焦りと不安からくる医療崩壊のデメリットの方が大きいだろう。

また、その者に微々たる休業補償があったとしても、後々差別を受けて社会から抹殺されるに違いない。

修練をしていない人間の判断力は極めて脆いものであるからだ。

ほとんど症状がないならば、知らない方がマシではないだろうか。

 

医療施設のキャパシティーは決まっているのだから、そこから逆算して現在できる対応の限界値を定めることが一番理に適っている。

またピークを後ろにずらし時間を稼いで要の医療施設の充実を図るべきだ。

助けるべき人は助ける必要がある。

おおむね日本の方針は正しいと私は思っている。

武漢コロナ自体はなんとか対応できるはずである。

 

しかし、恐慌は起きるだろう。

当面の本当の山はこちらである。

経済活動を止めれば経済苦による死しかない。

これと病死と質的に何が異なるのだろうか?

死は死である。

 

今後は、マラソンに例えるならば、前方から来る激しい強風の中を走るようなものだ。

これが本当に嫌になるほど苦しいのだ。

フォームを小さく前傾しむしろ風に身を預けるようにしながら走るしかない。

数年この調子で続くかもしれない。

相当な覚悟がいる。

 

強い向かい風の中において右往左往している余裕はもう全くない。

こうなってくると信心信仰をして一点に集中していく生き方が最も楽な生き方なのである。

時代に磨かれてきた仏教は必ずこの要請に応えてくれる。

 

以前のブログにも書いたが、近代哲学の基本的な問題から出離できる手段は信心信仰だけである。

(近代哲学のチャンプがカントであるが、我々の社会はカントの強い影響下にある。少なくとも法律学はカントから脱却できていない。)

この出離がなければ、自らの思考が空虚な論理に支配されたままである。

それでは、無慈悲な社会に変貌する過程において、無色界で迷い続けることになってしまう。

これは大変な精神的損失である。

学問の知見が転生出離を拒むことがあるのだ。

大学教育を受けた者にとっての皮肉な難所であるかもしれない。

インテリでも信心信仰に入れない者はギリギリのところで退転して死んでいる。

たとえば太宰治である。

彼は圧倒的な才能をもってキリスト教を学んだが、最後の最後で信じることが出来ずに自殺してしまった。

やはり彼は最後まで文学者でしかなかったのだ。

 

信じることは最初から出来るわけではない。

行じて自省して智慧を得てということの繰り返しの中で少しずつ醸成されてくるものだ。

疑心を破ることが道に生きるということだろう。

毎日欠かさずに行うことは確かに簡単なことではない。

(毎日欠かさず行うのは、自分中心を離れ御仏中心にするための行である。)

 

しかし、これからの時代はもう神仏の道以外に安全な道はない。

これは例えるならば、登山するならば整備された登山道を通るべきなのだ。

身勝手なバリエーションルートを選ぶ者はおそらく遭難する。

私が実家の宗派を最初におすすめする理由は、そこにもある。

我流だけは絶対にやめた方がいいということである。

(我流は自分中心になりやすいからである。自らの利養のために勝手にお経をあげるというのは完全に間違いである。先祖供養の一環としての読経が安全です。)

 

現代教育は批判することばかりである。

信じることを是非学んでいってもらいたい。

時代がそのように生きることを人類に要請しているとしか私には思えないのである。