最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

魂が際立ってきている感覚はないか

大衆はどこに目を付けているのだろうか。

修行が少し進むとそんな気持ちになってくるものだ。

自他の乖離が始まるからだ。

しかし、じきに人は自らの意志をもってせねば変わる事は出来ないこと気付く。

悪覚という過ちがあることもしる。

そこが分かって来ると今度は内向的になって周囲が気にならなくなる。

自己の究明に勤しむようになる。

しばらくし自らが整い信心信仰による正しい安心を得ると、次は一つ次元を超えた向上を目指したくなる。

そして日々の修行と聴法の因縁勢力の力をいただいて御仏の誓願と共に立つことこそが本当の向上の道と分かるようになる。

すなわち、人々の中に戻りたくなるのだ。

ここにきて如来地獄に入るとも苦想を生ぜずとの一節に火がともる。

人々の心の荒波を菩薩様ならばどう受け止めていくだろうか。

祈りも大胆になり如来我を中心にしていくことができるようになってくる。

このような境地になると、時代が厳しければ厳しいほど魂が際立って輝いてくる。

もちろん安易な道ではない。

しかし、これ以上今を感じることができる生きがいのある道もない。