お釈迦様の一生は人間的にみたら幸せだったか。
一族は滅び、故郷に帰る途上で亡くなった。
無念という言葉が頭をよぎりはしないだろうか。
しかし、それはあくまで人間本意に発想するからである。
智慧の眼により法身如来として観じるときは、やはり大医王なのである。
魂が磨けている人を見分けるコツはあるだろうか。
正直なところ、これはなかなか難しい。
お金持ちでも立派な人はいるし、貧しい人でも立派な人はいる。
また、いくつか欠点があってもそれを補えるほどに長所が素晴らしい人もいる。
人と人の境遇の差は星と星の距離ほどあるものなのかもしれないと思うほどだ。
自分自身が変われば世界が変わるのである。
もしかしたら自分自身が実は世界の中心にあるといっても間違いではないかもしれない。
もしそうであるならば、他と比較することや他の欠点を追求することほどナンセンスなことはないということになりそうだ。
利他行を通して自らの魂を磨いている。
他の為だと思うから妄想が湧いてくる。
これは一見矛盾するような表現であるけれども、同義である。
行者は人は他との関りを通して他に尽くすなかで空をしりつつ妙有に安らぐ。
あるようでないしないようである世界なのだ。
緊急事態宣言を乗り切るためには、三昧に入るしかない。
ちょっとした昂りでは違う。
静かに水の中をゆっくり沈んでいくように祈るのである。
必死であることとがむしゃらであることは違う。
自分はこれだけやったぞ!と思えば有相に住ししてしまい結局六道に輪廻してしまう。
ただ純粋に人の仏性に奉仕していくことだ。
教えの道は損得勘定を捨ててはじめてみえてくるのである。
そこが優しいスピリチュアルものとは違い、甘くないところである。
しかし、最高に生きがいのある道である。