最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

性エネルギー昇華はしていかねばならぬもの

心に注意しながら暮らしている。

電話を受ける時も次の作業に移る時も心の動きに注意している。

怒ってよいのは教えを守る時だけだ。

それ以外はもう泡沫の話であるという思いである。

 

仏典は毎日触れているが、読めていると思っているところが読めていないことがある。

ある日突然閃いて意味が繋がるのである。

これはやはり魂の成長に合わせて教えに基づく認識力が拡がるのであろう。

あきらめてはいけないということは言えるのだと思う。

分からないということはあまりたいした問題ではないのかもしれない。

確かに聴法の因縁勢力により了解する時は来る。

欠かさず続けていることで私は一切後悔していない。

 

性エネルギー昇華の実践は心をおさめるという観点からはすべきことである。

放逸にフラフラすることが増えればヒビ割れることは間違いないなしだ。

若い頃ほど苦痛でないのが少しさみしいくらいである(笑。

とはいえ、事の性質の問題として真剣白刃の思いを持っていかねばいけない時期にさしかかっている。

肉か霊かという岐路の選択だからである。

ただの我慢ではない。

 

先日托鉢をしていた真言の僧侶が武漢コロナで死んだというネットニュースをみた。

40代で出家して大都会で立ち続けた方であったとのこと。

祈るというただ一つに全集中する。

ただ祈るだけという言う者は浅はかであるとしか言いようがない。

大都会で立ち続けただただ一人で祈るのだ。

やらねば分からぬことだろう。

私は生き切った姿に感動した。

 

誰しもが本当は心の奥底では憧れている仏道である。

私も憧れているのだ。