最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

今変わらなければ新しい明日は来ない

よく自分がよくなってから人のために尽くせばいいという人がいる。

なるほど、世間を見渡してみると、そういう人は多い。

しかし、自分が安全圏に入ったのちに他に尽くしたとして本当に心に響いてくるだろうか。

 

あくまで仏の教えに教えに即せば、正しいことは今しなくてはいけない。

ウサギが自分自身を焚火に投じてその肉を旅人に与えた話をご存じだろうか。

究極的な状況であるが、仏教徒には自殺はないが殉死はあるということだ。

 

では正しいこととは何かという問いがおびただしい数の疑念と共に湧き上がってくるはずなのだ。

これに対する解答はひとつだ。

自分の決めたことを貫くことである。

性エネルギー昇華の実践もその一つであることは容易に分かるだろう。

これを繰り返すことで自分の成長と弱さに気付くことができるからである。

そこを足場にしながらひとつひとつ仏典の言葉を自分の人生の血肉としていくのである。

すべての人の顔が違うように同じ状況の者は誰一人としていない。

仏典の言葉の適用関係に責任を持てるのは自分自身しかない。

信心信仰とはまさしく自己の究明ということである。

 

戒定慧。

貫かれた行いから生じる智慧によってのみ疑心は破られていく。

疑心を破ることで仏性というものを把握していくのだ。

そして、自らが救われたところを他に語っていくことが荘厳行であり、利他行なのである。

世の中に様々な専門職が協働しているように、仏道を歩む者の一人として自ら全うしたところを他に証していくことは、本当に尊いことなのである。