最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

強かな悪とどう向き合うべきか

こんなことするだろうかと想像することができることについては、まず誰かがやっていると思って間違いない。

そして、それを超えて悪をなす者もおそらく確実に存在する。

たとえば、マスクやトイレットペーパーなどを高額で転売する連中はもはや悪魔であり人間ではないが、それはおそらく序の口の存在であろう。

 

法律に触れなければギリギリのところまでやる。

それが誰かの窮状につけ込むことになっても構わない。

彼らにとっては違法でなければ何をやってもよいという発想なのだろう。

さらには、違法であってもばれなければよいという魂胆の者もいるだろう。

この手のタイプとして思い浮かぶ人はたくさんいるのではないか。

仏教ではこれを闡提という。

 

そういうタイプに自分自身がならないと覚悟を決めることも大切だが、彼らに巻き込まれること自体が自分自身の失態とまず認めることだ。

ここまで事態が進んでいるのに、家にマスクがないとかトイレットペーパーがないとかお米がないとか、これは本来あってはならないことである。

普段から生活が整っておれば常に補充が済んでいてしかるべき物ばかりであるからだ。

過去の震災から何も学んでいない怠慢な人と評されても仕方ないだろう。

 

信心信仰のある人ならば、品薄に巻き込まれたこと自体に普段の生活のどこに心得違いがあったのかと反省しむしろ感謝をする。

おそらくケチさや基本を後回しにする鈍さであろう。

これが正しい智慧の磨き方である。

善に生き常に光の中にある者は闇とは無縁である。

自分が困り果てた挙句に他の悪を糾弾してもこれは愚かさを二重にするだけである。

 

様々な世界が重層的に存在していることもまた真実であり、最終的には、自らが発するところに従って自らに相応しい世界に住むことになるのだ。

近くに悪があるということは、自らを正す必要性が確実に増しているということを意味する。

今、魂の格差がひろがり始めている。