人助けと勤しむ人は尊いが、なぜかそこに我先に集まる人は乞食のような者が多い。
貧困はよい状態ではない。
弱いことが優しいということではないように。
清貧とは全く異なるのだ。
なぜ貧しいのか。
それは自分の本能のままに行動しているからである。
お金があったらあった分だけ刹那的な楽しみのために消費してしまうのだろう。
足りなくなれば騒ぐ。
恥知らずでもある。
貧困層に対して魂の錬磨の仕方を授けずに、ただ物を配ることは、そのような貧困をむしろ助長させてしまうかもしれない。
施主は尊いがその思いはまず裏切られるだろう。
世界経済が破たんして、余裕のない貧困者が増えてくる。
この世はもはや「ばれなければいい」とか「やった者勝ち」という世界になっていく。
そして、その世界に巻き込まれて心が爛れてしまった者こそが、本当の感染者なのだ。
武漢コロナは雑魚であり、真打はこちらである。
邪悪に感染してしまった者は、善が邪魔になってくる。
それが典型的な症状である。
一日でもはやく自灯明、法灯明に至るための道に入ることだ。
福徳の荘厳として裕福であることは正しい。
他の模範である。
しかし、もし今は貧しくても日々精進するならばそれはそれで問題はない。
ただ、すでに述べてきたように、物を配るといった利他行には依存しないようにしたいところだ。
難所であるが、ここを知るためには仏典をよく理解していくことが必要である。
相手の心に仏を刻んでいくように教えを語っていけること。
これが利他行の真の目標である。
お金自体は価値中立的存在である。
したがって、お金は何も悪くない。
悪しき欲望がお金を誘い出した時にお金が悪くみえるだけである。
純粋に正しい目標を持つ時には、お金にも尊い使命が宿る。
ここも人によっては難所である。
布施行をすると深めることができる場合がある。
結局、仏道に生きることに尽きる。
そして、智慧の荘厳と福徳の荘厳は、ある意味、その結果としての仏教徒の責務でもある。