最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

怒りを鎮める方法について

怒りを鎮めるプロセスはある。

まず、自分の認識自体が七識によって歪められていることを受け入れることである。

そして、相手も同じ事情を抱えていることを知ることだ。

人は過去から様々な業を作りその因縁を引き継いでいる。

物事の見え方自体にそれぞれ個性があるのだ。

私も真に受けやすいところがあり、わりとカッとなりやすいが、少し手前で相手を受け止めておくことをアドバイスされてからはずいぶんと変わった。

 

また、仏の教えを学ぶようになってからは、人から罵倒を浴びさせられるということはないが、人の欠点がよく目につく時期はあった。

人の欠点が目につく時は、相手はそういう因縁を抱えているのだなという発想をもって、その奥にある仏性に仕えるような気持ちで接するとよいと思う。

修行が進んでいる人は、大方、そういう心持ちで対人関係にのぞんでいるはずである。

これは相手の仏性に仕えるというところがポイントで、恐れて相手の機嫌を取るということでは断じてない。

ここは誤解しないようにして欲しい。

したがって、仏の教えに縁がない人からすると、優しくはみえないこともあるかもしれない。

 

相手を変えることはできない。

しかし、仏の教えを語りかけることで相手の仏性に刺激を与えることはできる。

これが布教の本質であるし、大乗の本質である。

相手が仏性に目覚め仏の教えを自ら求めていくようになることを願うこと。

これが御仏と共にあるという至上の幸福の道なのである。

この感覚が自然になってくると恐いものがなくなってくる。

この点に関するデリカシーの問題は、教養の問題であるかもしれない。

教養として状況を読むことは常識の範疇においては大切であるが、言うべき時には言い難いことでも言うということが魂の成長にとっては重要であると最近はそう感じる。

 

このように自らの悪因縁を切り、定に入り、己の迷いを去ることが怒りを鎮めるためには必要であるが、ここから不殺生や不邪淫、不妄語などの戒律の意義も見えてくる。

つまるところ、それらは悪因縁を増幅させる自他共に苦しめる因となるものなのである。

その因を作らないように他を思いやる心がいかに大切か、それを以上のように涅槃原理に基づいて理解すると、極めて明確なものになってくる。

その反射として、怒りの鎮め方も分かってくるのである。

そこまで腹を立てることか?という自問ができるようになる。