本来ならば仏法一つでよい。
しかし、善悪定まらぬ人間界の宿命がある。
六道の範疇にあるということである。
仏法に見向きもせぬ者もあれば反発する者すらいる。
また、天界の護法の神々といえども功徳が尽きれば輪廻する。
これはキリスト教の天使と悪魔の話を聞いていると頷けるものがある。
天使も傲慢の心を抱けば暗闇に落ちるのである。
学問はそのように定まらぬものから生じたものかもしれない。
様々な信仰があるから自由主義なのだ。
信仰の自由が近代の花形的人権と言われているのは、自ら教えをもてば必ず頷ける。
自由主義はいわば枠でしかない。
その枠を守るためにどうすればよいか。
そこに真剣になっているだけのことである。
個人の生き方について真剣に議論しようとしているわけではない。
この辺りを混同している者が意外なほど多い。
政府を認める以上、腐敗する権力に対処する必要がある。
権力が腐敗するとは恣意的に自由が圧されるということである。
だから民主主義が手段として必要なのである。
もっと言えば、国民による抵抗権が必要である。
民主主義で自由主義を潰せるかという問題があるが、今日はやめておく。
日本はすでに80点以上のものを手にしている。
そこは堂々と評価してよい。
しかし日本国民は自由主義に関してはボンボンである。
香港からよく学ばねばいけないだろう。
中国共産党の独裁の何が脅威なのだろうか。
それは権力者の思惑から離れたところに自由の枠がないからである。
中国にもおそく法に基づいた信仰の自由はあると反論するだろう。
しかし、それは一見自由にみえるだけである。
しかもそれは法ではない。
金にしか興味のない者だけが中国に市場に魅力を感じるのである。
これはもう間違いない。
目いっぱい稼ぐことを前提としてチャイナリスクを金銭評価している。
むしろ失うものが金だけならいいだろうと。ここである。
しかし、世の中にはお金よりも信念を選ぶ者もいるのである。
チベットの僧侶たちを思うと私は許せない気持ちになってくる。
日本においては仏法に生きても違法の問題は一切生じない。
布教の際に他者と交渉をもつがそれが違法となる場面はまずない。
幸運だ。
この幸運を感じられるならば平和ボケはしていない。
断言できる。