性に関する秘儀めいた分野はいろいろある。
ミゲルネリ氏の性エネルギー昇華秘法から房中術や小周天、チベット体操、ナポレオンヒル氏の思考は現実化するなど私もかつて一巡している。
それぞれ一理あり、目的を絞って実践すれば確かに効果はあるはずである。
しかし、性エネルギー昇華は単純なる道理であるから、実践にこそ価値があるのであって説明文に価値ががあるわけではない。
同じ人間が違う仕方で同じ理を説明をしているだけである。
性エネルギー昇華の実践についてはコツはひとつである。
菩提心という観念をしっかり学んだら手は合掌する手として不邪淫戒(不淫戒)を実施するだけである。
私が師からヒントを得て学んだことは、手は合掌する手であるという点である。
このワンフレーズが魂に響けば思いとどまることもできる。
そして、最も肝心なことは利他行に専心していくことである。
そこが明らかな中心であるが、どこにも書いていないことではないかと感じている。
性エネルギー昇華の実践はただの不作為ではないのである。
その先の利他行が本体である。
さらに言えば、それは自分のところには何も残らないという究極の境地への道である。
別の観点からいれば、神仏に生かされるという道である。
もてたいとか夢を叶えたいとか能力開発したいという動機はそもそも魔境の入り口である。
力が漲ってきた!では道を誤る。
貴重な霊体が破壊されてしまう危険があるから、力を得たいと望むならば霊的な世界に興味を持つ前に端的にウェイトトレーニングでもした方がいい。
それも十分価値がある。
このブログでもかなり初期のころからこの点は指摘している。
性エネルギー昇華によって霊的な充実をはかり他を許し思いやることができる。
その行き方が真実に迫っているならば神仏が呼応してくださることがある。
よくなりたいと切望しているうちは性エネルギー昇華の実践はできないかもしれない。
残念がることでもなくただその段階にないというだけである。
よく生きていこうと思えるようになると、どんな状態からでも性エネルギー昇華の実践はできる。
この差が分かるのは一般的には40代からだろう。
命に対する責任が分かってくるとそうせざるを得ないだろう。