多くの人は信じるという力をほとんどつかっていないのではないだろうか。
学問の影響を受けてか、批判精神だけは旺盛のようにみえる。
しかし、学問は万能ではない。
パソコンや洗濯機のようなもので、人の生活に役立つ限りにおいて価値があるものに過ぎない。
一方、信心や信仰においては、批判精神はご法度である。
信じるという純真さのみが推進力の世界である。
ここでは表現の自由といった人権も文字通りにはないといっても過言ではない。
神仏への帰依、師への帰依が基になるからだ。
したがって、本能が危ういと感じるのは当然であるし、その通りで、間違えれば一生を棒に振るだろう。
しかし、そうかといって、こればかりはどれだけ警戒し自分勝手に「研究」しても無駄である。
経典などをいろいろ引っ張り出してきて自分勝手に解釈したところで、何も始まらない。
というのも、正当な霊脈に則ってはじめて経典が生きてくるからだ。
正しい師を得て、信仰、信心は命をかける必要がどうしてもある。
縁というものがどれだけ貴重か。想像に難くないと思う。
例えるならば、街並みをいろいろな仕方で眺めるというのが、研究だ。
信心、信仰とは、そのうちのどこかの家の中に覚悟をもって入っていく行為である。
性エネルギー昇華の実践の奥義は、後者にある。
在家ならば不邪淫戒は必ず守るべきだ。