最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

youtubeを使わない生活

今年からひとつまたやめたいことを実践し始めている。

それはYouTubeである。

もうこのサイトを利用しないという決断である。

子供にこれ以上使わせたくないと思い始めていたこともあり、まずは自分自身からということでもある。

実はここ2年くらいプレミアムに入っていた。

主な理由はミュージックの方をジョギングのときに使っていたからだが、広告のない動画はそのへんのラジオ番組よりおもしろいこともあってか、つい聴いてしまうことが多かった。

そのつい聴いてしまうという習慣に終止符を打とうと思った。

さあ、どうなるか。

 

やめて感じることは、快適である(笑。

脳の状態がよくなり始めている。

なんでもっとはやくスマホからアプリ自体を削除するという一手を打てなかったのだろうかという思いがわくほどだ。

愚かにもまた時間を無駄にしてしまったなという感覚である。

 

YouTubeをはじめ、SNSには人間の本能的な無責任な言論がはばをきかせている。

5ちゃんねるなども同じである。同じことが膨大に繰り返されているだけだ。

そしてそれには結論もなく終わりもない。

充実した生を満喫したいならば、あえて触れる必要はない。

ビシッと雨戸を締め切るように一切関わらない方がいい。

それで傷つく人はいない。

 

日常はそのまま続いていく。

しかし、時代は暗く厳しいものになっていく。

ただ、巻き込まれないような生き方はおそらくできる。

youtubeは甘く見ないことにした。

つい見たくなってしまうところに隙ができる。

その隙を完全に塞ぐ。

 

論理の前提まで失う時代

いかに今というところに集中して生きていくか。

生の充実。

関心はもうそこにしかない。

我々はなぜこの時代を選んで生まれてきたのだろうか。

問いはそこからはじまり、今に収斂していく。

 

あまりにも頼りないものばかりである。

政治にしかり、である。

結局、己の霊体を基礎にするしかない。

そして間違いのないと確信できるわずかな法との往復で鍛えていくしかない。

 

時代は間違いなく暗い方向に向かいつつある。

その先が明るかろうかどうかはおそらく我々には関係ないことになるだろう。

肉体はそのときには滅びている。

 

アメリカの大統領選挙はターニングポイントになる。

このブログではトランプがましというスタンスであったが、正直なところ、日本にエネルギー革命でも起きない限り、トランプが勝利したところで活路はもうない。

ウクライナが負ければ、アメリカが崩壊する。

その過程で日本も巻き込まれ軸を失い疲弊していくだろう。

英米ヨーロッパの時代が終わることは戦後の日本の学問の基礎の多くが失われるということでもある。

資本主義、そして自由民主主義の終わりということだ。

 

さあ、漆黒からはじめよう。

私はそう思い描いている。

周囲がどれだけネガティブであろうが、私には関係ない。

そう言い切れるだけの霊体を磨いていく。

ここから先は真の強者の独壇場となるだろう。

弱音、愚痴、飢渇、等々、諸々の感情に捉えられて食い散らかされる者とそうでない者とに分かたれていく。

肉体と精神を鍛錬し霊体に生命力を注ぎ込んでいくのだ。

 

そして、ならば何が善いのか。

その論証を血をもってしていかねばいけない。

それでもやはり自由民主主義を失いたくないならば、もはや命をかけねばいけないだろう。

叫ぶだけではもう遅い。

批判するだけではもう遅い。

 

性エネルギー昇華の実践、零式

気付けば朝と夕の読経修行は10年を超えたかもしれない。

一日足りとて休んでいない。

もう年数を数えていないから記憶がややあやしいが(笑。

 

とはいえ、神々について思うことがある。

読経は、どんなに心が荒んだ時も行った。

そんなときは神々に対してすら自我は暴れ逆らっていた。

このブログ中にもそんな猛々しい自我が見え隠れしているだろう。

しかし、理屈抜きで貫いてきた。

その事実だけは一貫している。

私はこれを零式と名付ける。

 

神々は頼もしい。

やはり、という言葉をつけざるを得ない。

助けてもらっているという気持ちはどうしても生じてくる。

温かくて涙が出そうになることもある。

また、組織された霊団のなかに自分があることを思わざるを得ない。

覚えているだろうか。

このブログでも何度も書いたが、葛西りまちゃんや船戸結愛ちゃんは今でも私と共にある。

おそらく世界で彼女達を毎日思い出している者は私しかいないだろう。

 

一条の光のような祈りは観念からは生じない。

どのみちこれからも感情は猛こともある。

心とはそういうものだからだ。

ゆえに心に生じる観念を観念で定めることはできない。

観念はただ実践により定める。

脳で動かすのではない。

習慣の勢力をもって動かすのだ。

脳を聖なる習慣の支配下におかねばいけない。

この指摘もこのブログでは強調したい。

脳を己の支配下におく。

脳は他の臓器と同じである。

過大評価してはいけない。

脳を黙らせるべきとは黙らせねばいけない。

冷水をかぶった時の如く。

 

日々の実践から則差し込んでいく。

これを理屈抜きの性エネルギー昇華の実践の零式としたい。

 

 

 

性エネルギー昇華の実践を行うタイミングについて

年齢はおよその指標に過ぎないが、歳を重ねるごとに性エネルギー昇華の実践は形式的なそれ自体はたやすくなってくる。

異性から受ける力が弱まることもあるし、その本質を理としては理解し始めていることもある。

 

性エネルギー昇華の実践は、その負の側面があるとすれば、悪をも増幅させるということであろう。

ここでは便宜的に善悪という区別をするが、性エネルギーは価値中立であるからそのどちらにも奉仕することになる。

容易に想像できることであるが、悪を増幅させたあとの反動は相当なものがある。

やらなければよかったというレベルに達するだろう。

 

三毒を浄化することが大切で、負を抱えたまま禁欲してはいけない。

この指摘はこのブログが初となるのではないだろうか。

これは私の経験からくるものである。

三毒の浄化としては、まず生活を整えることから始めなければいけない。

朝早く起きる必要はない。

ただ夜早く寝る。

そして、目安としては朝6時少し前に自然と目が覚めるまで毎日よく睡眠をとることである。

疲れていると6時を過ぎる。

そして、夜早く寝るために第一にすることは飲酒を一切やめることだ。

弱さを増幅させる最たるものが酒であろう。

嘘を積み重ねる因となる。

唾棄すべし。

 

エネルギーが高まってきたら筋トレをする。

ジムに通う必要はない。

6畳あればできることから地道に積み上げていく。

(ただし、チンニングスタンドはあった方がいいかもしれない。)

そして、高まりが強くなってきたらランニングだ。

走っている時に自然と内観ができる。

ランニング自体を瞑想だと考えていいだろう。

これは是非その楽しさを体験してもらいたい。

 

このあたりまでくると生活も充実し始めているだろう。

酒をやめることで食事にも気にかけているはずである。

また、心に苦しい事があったとしてもそのストレスの向き合い方についての目途はたち始めているはずであるから、心も安定し出しているだろう。

正しい挑戦になりつつある証しだ。

その頃には性エネルギー昇華の必要性すら感じていないかもしれない。

まあ、それはそれでいいのだ。

 

性エネルギー昇華の実践の準備が整うのはそのラインを超えたところにある。

ここまでくれば悪より善を増幅させることができるからだ。

人はいずれは再びエネルギーそのものに還るときがくる。

エネルギーの浄めこそが人生の目的である回帰であるように感じ始めている。

性エネルギーは善用する必要がある。

 

空間を支配し場をおさめていく

掃除は空間を支配する要だと感じている。

読経で心に方向を持たせてその因縁勢力によって掃除という行為を積み重ねていく。

これがいわゆる結界であるといって過言ではないだろう。

そして、その結界とはすなわち、神々の通り道である。

自分自身の身の回りはこれで固めていく。

容易に破られることはない、当ブログがおすすめするまさに攻防一体の戦陣となる方法である。

 

そして、もう一つは節制である。

これは大技となる。

性エネルギー昇華の実践もまた空間を支配する方法であるといっていいだろう。

対人的な近接格闘においては、性エネルギー昇華の実践の有無によって結果は変わってくる。

人と人の間にある場を自分の領域にしたいときには、性エネルギー昇華の実践が役に立つ。

強力な邪と対峙するときには必ず性エネルギー昇華の実践が必要になる。

ただし、節制には反動を伴う。

結願という概念があるように、期間はしっかり区切るべきだろう。

人間であるという側面から逃れることはできない。

時を選ばねばいけない。

 

意識すべきは節制よりも鍛錬だ。

大技を活かすためには基本に徹するべきだろう。

これについてはまさに筋トレ一択である。

筋トレは心を練り込んで強くしていくことができる。

どう解釈してもよいのだが、これはボディビルということではない。

むしろ霊的な鍛錬である。

鍛錬の先にあるものを自覚していることが差となる。

そして、ランニングだ。

ランニングは心を清潔にする。

節制ともっとも相性がよいトレーニングとなるのは必然である。

 

神々や守護霊団と共にあれるような場に自らをおく。

これが当ブログの奥義である。

単独の戦術ではない。

時に神通によるチート級の力が発揮されてしまうことがあるが、むしろこれが日本人の本来の道理である。

集中力の聖域を作る祈り方

神々と言っても神と呼んでも神仏と表現しても、このあたりはもうどうでもよい。

各自のステージによるだけのことである。

 

ただ、いろいろな人をみてきたけれども、自尊心という防御はか弱い。

貧乏な人ほどむしろ尊大な態度をとったりするが、弱い。

ただの孤独である。

こういくぞ!と心の決めたところに謙虚さがあったほうが間違いなく強さが伴う。

高ぶる自尊心は見通しを悪くする。

感受性を弱めるし、知能も低くする。

 

尊い存在と共にあると感じながら生活することが最もよい。

何が起きてもまず祈りに入る。

その祈りのなかで炊かれた火こそが自らをしっかり照らしだしていく。

よくみていくことができるようになる。

自灯明法灯明とあるが、その通りであるが、共にあるものがあってもそれは全うできることである。

ここは苦行の放棄であってよいように感じ始めている。

これは自力だけでもなく他力ということでもない。

 

何があっても今日という1日を集中力をもって生きることが大切である。

本気で生きようと思うからこそ何度も何度も崩壊の危機と対峙していく。

そのたびに感覚には頼ってはいられない体験をしていく。

まさに真っ黒、真っ白という体験である。

そんなときに、祈りの一言をもっているか否かが命綱ではないだろうか。

私はこの頃、そう感じ始めている。

 

心に小さくとも聖域をもつことが要である。

みずからの修行にみずからが救われていく経験をする。

その積み重ねが祈りの言葉を強くしていく。

読経修行は続けておくべきだ。

私は巡ってきたものに救われた経験を幾度となくしている。

 

 

浅いこととの決別

命をかけてそれを己の表現として踏み出していく。

これを今年からの定としていく。

 

年始から様々なことが起きている。

私の予想では、この世はこのまま何事もなく進んでいく。

天災、人災はいつの時代にもある。

とり立てて騒ぎたい人もどの時代にもいるのだ。

 

ただし、やはり善を行ない難い時代に向かっていることは間違いない。

というのも、善とは何かという大きな問いが人々の内側から湧き上がりつつあるのを強く感じるからだ。

行いと思いの距離が思いの外大きくなってきた。

良い人は増えているかもしれない。

しかし、口を閉ざす人もまた増えている。

迷い始めているということだろう。

損をするのではないか、と。

 

自分はこういう行き方をしているのだということを示していくこと。

これには勇気が要る。

その勇気は利用されて捨てられる可能性もある。

しかし、世に出てはじめて宝となることも一方では事実であり、ひとりで満足しているだけでは、いずれは何もなく枯れてしまうはずである。

 

これは思いをぶつけていくということとは違う。

たとえるならば、殴られても殴った相手の心を観察する力を持つということである。

他のいきった感情と踊ることなく、己の信念のままに生きるということである。

 

かなり難しい生き方であるように思う。

鈍いこととは違うからだ。

鈍くてマイペースという人はままあるが、そういうことではない。

よく観察しよく感じ、それでもなお己の霊性のままでいるということだ。

臆病から来る卑劣さと対峙したときに、怒ることなく霊性のままに祈り行動することは難しい。

たいていの人はそこで怒ってしまう。

 

時事を踏まえつつ、光となっていこう。

それが修行を活かして生きるということだ。