最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

強くなれない中で強くなる

10月の半ばごろに坂道ダッシュが原因で右股関節を痛めてしまいランオフに見舞われていた。

失敗した。

歩行には問題なかったので日常生活がどうこうしたわけではないが、ボルタリングに例えるならば、頼りにしていた支えが突然外れてしまったような感覚に見舞われた。

自重トレーニング等はしてきたが、気分は乗らない。

エントリーしていたマラソン大会も棄権。

あれから2か月半ほどたつが、98%回復した。

もう大丈夫な域に帰ってきたからこうして書けている。

今回は過去最高に長く精神的にもきつかったことは告白する。

年末のサスケにケインコスギがでておらず、その理由を番組内で知ったが、彼も怪我が理由とのこと。

心底残念だったが、がんばりが転落に繋がる年代に入ったのだ。

まさしく肉体の老化というものだろう。

今年の後半はまさにわが身を通して思い知りケインの怪我で納得した。

 

では、坂道ダッシュはやめるか?と問うのである。

いや、実はむしろこの故障が完治したらしっかりやろうと思っている。

タラタラしたジョグを長く続けるよりも、時間と内容をコンパクトにして強度を高めておいた方がいいと判断したからだ。

なぜあの程度の坂道ダッシュで股関節を痛めたのか。

それは、普段から負荷に気を遣わないでいたからだと思っている。

長い時間のトレーニングはしてきたが、甘くみてきたことがあったということだろう。

やり過ぎたことも当たっているが、やってこなかったことも当たっている。

次からはバランスよく自己の状況に合わせた強度でコンパクトにトレーニングしていきたい。

 

以上のことの本質は自分のすべての生活場面にもあてはまる。

時間を大切にするというような一面的なことではない。

智慧とその実践を確実にしていくということだ。

後悔の因となるようなことは一切排除していくというさらに強い気持ちが生じている。

大枠はすでにある。

このブログを通して育んでいる習慣の力は年々強まっている。

その精緻な習慣に己の智慧を一つにして実践とする。

進化であり回帰である。

 

 

 

光と闇は不即不離

進化を感じている。

許しながら精妙化を進めていくこと。

これができるようになるためには、不可避の苦労もまた意味がある。

なぜこんな目にあわねばいけないのか。

理不尽は、むしろ壁を砕いていくための重しとなっていく。

 

壁を砕く契機がなければ、ループを繰り返す。

平穏にループを繰り返していくことと好調であることは感覚としては紙一重であるが、違う。

功徳が尽きたときその差がみえてくる。

 

イメージは大切だ。

まずは精一杯己のなすべきことに日々取り組むこと。

感情の奥にその像をしっかりつかむ。

そして、関わる人々に明るいものを抱くことだ。

様々な壁が立ち現れるが、それを砕くことが修行であり人生の戦いである。

光も闇も不即不離であり相対的なものである。

進化のためにはともに学びをもたらす。

うれしいときには奢らず、苦しいときには怒らず。

記憶や経験に依存せずに進む。

 

苦しみの体験こそが智慧になる。

逆説的であるが、怨む気持ちも体験せねばいけないことである。

怨む気持ちに己が蝕まれることも体験せねば、その愚は理解できないのだ。

 

あー、そうであったか!

この感覚が静かで美しい音楽に沈み込んでいくような納得変わる時、パッと開けていく。

 

もがいていること。

これが生に意味をもたらしている。

瞑想を繰り返していくと、いろいろうまくなってくる。

近況

毎日、命を使い切って生きているという感覚を大事にしている。

子供中心に近い生活ではあるけれども、それはそれで幸せだ。

とはいえ、それでも己自身の火も燃やしている。

寸暇を惜しんでという言葉がぴったりくるが、どんなに小さなことでも達成したことによろこびをもっていく。

自分自身の人生を見失っては後悔のもとになるからだ。

この手のことを私は実際の生活では人に語ることはない。

この匿名ブログだからこそ漏らす本心である。親友にもこのブログの存在はあかしていないのである。

 

うまくいかないことの対処は年々うまくなる。

そういう事態が生じることがあたりまえになってきつつあるからだろうが、人生経験からくる智慧は年輪にも依存するのだろう。

歳をとることは悪いことばかりではない。

その都度、活かせる過去は捨てずに、前向きに、諸々を組み直していく。

それで目途はつく。

普段からの学びは大切だ。

結局、地力はそういうところからついている。

いざというときにそれが最低でも2回目であることが大事なのだ。

いざというときが1回目というのはかなりきつい。首の骨をおることになるかもしれない。

本は精読も大事だ。

未知にぶつかってもここまでは理解しているというブイが頭に打ち込んであることが命綱の基礎になるからだ。

 

10月は学芸会をはじめPTAの活動も忙しかった。

おそらく最後のピークであったと思う。

私は会長としての挨拶等は一貫してすべてオリジナル書下ろしである(笑。

ネットで拾うということはしていない。

しかし、これがよかったようで、かなりの保護者から好評をいただいた。

ところで、このブログも読者の方がいるので続けている。

嘘は書いていない。

嘘を書かないために私は知り合いにこのブログの存在を伝えていない。

そのため私にとってのより詳細な現実を書いている。

好評かどうかは分からないが、よりオリジナルとなっていることは自負している。

 

人間関係の苦しみに打ち克つ道

実践先行型でここまで来ている。

結局のところ、理というものだけに依拠することは言い訳を生みやすい。

実践で切り開いた道だけが重さを与えていく。

これが実感である。

もっとも、実践は正しくなければいけない。

多くの賢者がそれぞれの実践から帰納的に示してきた理にはそれなりのものがあるだろう。

自らと向き合いなかでそういうものを参照し、経験としての誤りを師としながら軌道を整えていく。

この方法が最も安全だと思われる。

急いでよいことなどひとつもない。

堅実にいくべきだ。

 

最近、怒りというものの制御がうまくなってきた。

理不尽は魂を磨くのだろう。

このブログでも事あるごとに正直に書いてきた。

痛みのど真ん中からあがき続けてきたが、最近、怒りから距離をおく感覚が分かってきた。

言葉のうえで許すなどいったところで、それはごまかしているに過ぎないことが多いだろう。

このブログで書いてきたことは結局、脳を他の臓器と同じものとしていく道であったように思う。

脳の反応を脳の反応として把握することが怒りから距離を置く秘訣であった。

脳という臓器の正常な反応として怒りというものがあるということにすぎない。

お腹が痛い時にそれ以上に思想的に何かこだわるだろうか。

脳を心だと勘違いしてはいけないということだ。

脳は腸と同じである。

「あっ今頭に来てるな」とただ認識していく。

それだけでいい。

それ以上に考えることをよいこととしないことだ。

すっと意識を離していく。

お腹が痛い時にトイレに行くとか薬を飲むとかいった行動をとるときと同じ様にする。

瞑想がよい。

 

そして、脳を鍛えるにはやはり運動だ。

私にとっての運動の目的は脳の強化にある。

鍛えて心(理、魂)に従うようにしていく。

また、性エネルギー昇華も結局は脳に力を蓄えていく。

運動+性エネルギー昇華。

この目的は脳の強化に通じている。

そして全身の調和に至る。

全身を司る心こそが神々へと通じる道そのものである。

きっぱりと独りで進む

私は大般涅槃経典と法句教典を読んでいる。

いわゆる最後と最初の経典である。

武漢コロナ以降は、法句経典をよく読んでいる。

このおかげでむしろ大乗の広がりがよくみえてきた。

法句教には、つまり、アホと付き合うなということが書かれているのではないだろうか。

アホは自他にひそむ。

アホを避けよと。

 

理を論じることに多数決でおさめることがよくある。

しかし、これは事の性質を歪めている。

理は本来多数決にはなじまないものであるからだ。

お釈迦様はいう。

独りで行けと。

理に則り独りで行けと。

アホとは縁を切れと。

多数から嫌がらせを受けるようならばきっぱり独りで行けばいい。

相手の数など問題ではない。

実は、この痛快さが大乗経典には乏しい。

大乗経典しか読んでいないと、下手をすると自分の理を無視して相手のことばかり考えてしまう。

それが躓きの石となり、理不尽に耐えることと利他の区別がつかずに魂を弱らせていくもととなる。

嫌な奴とは物理的にも精神的にも距離をおいてよい。

法句教にはむしろその方向で書かれている。

 

ならば、利他とはなんだろうか。

これは真摯さのことだと私は確信している。

人柄のようなものではない。

物事に向き合う姿勢そのもののことである。

堕落した者にとってはとにかくけむたいことであろう。

利他とは厳しさから生じる刹那の微笑みのようなものだ。

これが人々を照らすのだ。

利他とはお金や物を配って救うことではない。

ここまでは分かりやすいのだけれども、利他を精神的な支援である考えている人はまだまだたくさんいるのではないだろうか。

精神的な支援であると捉えてしまうと大乗経典自体が躓きの石となりかねない。

そうならないためには自分を正すために手段を選んではいけない。

あくまでそれが起点である。

 

私のマインドセット

心が引き裂かれてしまうような経験を何度かすることで得られる智慧がある。

それは残存したものを慈しむしかないという覚悟である。

失う経験はまさに闇であるように思う。

愛別離苦である。

 

理想に燃えることは素晴らしいことである。

光の中においてさらに輝きを求めていく。

これは天道とも言い得る。

ただし、辛い経験がないということは闇落ちの危険を内包しているということでもある。

若さというものが強くも脆いわけはそのあたりにあるように思う。

 

辛い経験とはどんな経験だろうか。

私は最初からずるをする人間は永遠に辛い経験はできないと確信している。

辛い経験とは誠実さが欲望に押し負けることだと思う。

理想が現実に負けることでもある。

手が届かない思いである。

 

人はそういう辛い経験をへて人情というものを理解し他者を許す。

私の保守思想の核心はこのあたりにある。

そして、そうして温かく少し緩められた心境から己自身を再度奮い立たせていくのだ。

自らの役割を全うするために。

ここが私の起点である。

 

傷は一生治らない。

乗り越えるとそれでよいと思えるようになる。

治そうとあがくうちはまだ辛い時期は続くはずである。

あがけばいいと思う。

自分をごまかすことが一番よくない。

しかし、乗り越えると大切なことは治すことではないことが分かる。

今あるものにもっとフォーカスしていくべきだ。

コスモが湧きたつポイントというものは必ずある。

 

 

 

 

紙一重の差にすべてをかける

日々の鍛錬。

これはもう巨悪ですら常識としているように感じる。

自分の利益の事しか考えないような人々こそむしろ鍛錬を怠らない。

酒も飲まないだろう。

マインドフルネスだってしている。

性エネルギー昇華だってしているだろう。

どうも騙されてきてしまったのは、ちょっとだらしないくらいの人のほうが人情味があるといった思い込みである。

これは嘘であると私は確信している。

端正さには人格が映る。

だらしない者に息の長い人情などあるはずがない。

しかし、先の話に戻すと、巨悪こそ形式を重んじきちんとしたスーツをまとっていたりするものだ。

みかけの端正さではとにかく隙はない。

そうなると私の説には矛盾があるようにみえる。

では、矛盾がないとすれば、その差は何か。

おそらくそれは読経の有無である。

つまり定に何を置いているかである。

結局、肉体の目をもって端正さをはかることには限界がある。

最後は霊的な迫力を追える感性という目をもっていくしかないということである。

正しい定には正しい霊性が宿る。

巨悪を打ち破っていくためにはその霊性に神々の加護が必要になってくる。

誤った定はすべて地に属し神々が加護するところとはならない。

神々の加護を得やすい自我に調整していくことが定であると言い換えてもよいのかもしれない。

ともかく、手を抜けば奴隷になるしかない時代である。

日々の鍛錬が重要だ。

どんな心境であっても淡々と継続していくことが正気を保つ要となる。