最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

カルマに逆らわない生活

おそらくだが、魂の最終段階にある者は、できるかぎり悪いカルマを作らないように細心の注意をしつつ暮らしている。

自ら人々の業に飛び込むような愚かな真似はしない。

映画やドラマのようなことに興味は持たないはずである。

華々しさには必ず裏がある。

その裏というものは必ず自らが引き受けなければいけない。

それがカルマである。

 

このブログでも私は苦しみを吐露することがあるが、しかし、この頃では心境にやや変化が起きている。

カルマには逆らわないという気持ちになりつつある。

やむを得ないという諦めの感じが生じてきた。

止むまで放っておくしかないのだ。

一方で、痛みや苦しみを抱えながらも善というものを蒔いていく。

善という実践だけが苦しみと無縁であるからだ。

苦しみは窒息であり、善行はつまるところ呼吸である。

生きることそのものである。

 

ずるい人はたくさんいる。

これはもう想像以上にいる。

他者の人のよさを利用して楽をする者から嫉妬の目で生霊を飛ばす輩まで本当に多種多様だ。

これがこの世というものであろう。

そして、善というものを立てると、内外から大なり小なりの魑魅魍魎もわいてくる。

そしてそれはカルマをてこにして心の隙から入り込んでくる。

面倒である。

ゆえに、非常に険しい道となるのだ。

 

必死に祓おうとするから善から離れてしまう。

これに気付くこの頃である。

とろいことや恥知らずな事件に巻き込まれても、もはや動かぬことが大事だ。

言葉で言われたくらいのことならば、放っておくべきだろう。

反応しないことの方が要であり本筋なのだ。

 

この世には善を嫌う者すらいる。

しかし、だからどうなのだ。

そういう人と二人きりになるからいけないのだ。

大きく広げていけばいい。

善を中心に広く広くしていく。

そういうことで黒いシミも徐々に小さな点になっていく。

苦しいのは仕方がない。

やらねばいけないことはただ正しい呼吸を繰り返すだけだ。

自ら墨汁をまき散らすような愚は今限りやめねばいけない。

多くの人は善に立ちながらその失敗を犯している。