実践先行型でここまで来ている。
結局のところ、理というものだけに依拠することは言い訳を生みやすい。
実践で切り開いた道だけが重さを与えていく。
これが実感である。
もっとも、実践は正しくなければいけない。
多くの賢者がそれぞれの実践から帰納的に示してきた理にはそれなりのものがあるだろう。
自らと向き合いなかでそういうものを参照し、経験としての誤りを師としながら軌道を整えていく。
この方法が最も安全だと思われる。
急いでよいことなどひとつもない。
堅実にいくべきだ。
最近、怒りというものの制御がうまくなってきた。
理不尽は魂を磨くのだろう。
このブログでも事あるごとに正直に書いてきた。
痛みのど真ん中からあがき続けてきたが、最近、怒りから距離をおく感覚が分かってきた。
言葉のうえで許すなどいったところで、それはごまかしているに過ぎないことが多いだろう。
このブログで書いてきたことは結局、脳を他の臓器と同じものとしていく道であったように思う。
脳の反応を脳の反応として把握することが怒りから距離を置く秘訣であった。
脳という臓器の正常な反応として怒りというものがあるということにすぎない。
お腹が痛い時にそれ以上に思想的に何かこだわるだろうか。
脳を心だと勘違いしてはいけないということだ。
脳は腸と同じである。
「あっ今頭に来てるな」とただ認識していく。
それだけでいい。
それ以上に考えることをよいこととしないことだ。
すっと意識を離していく。
お腹が痛い時にトイレに行くとか薬を飲むとかいった行動をとるときと同じ様にする。
瞑想がよい。
そして、脳を鍛えるにはやはり運動だ。
私にとっての運動の目的は脳の強化にある。
鍛えて心(理、魂)に従うようにしていく。
また、性エネルギー昇華も結局は脳に力を蓄えていく。
運動+性エネルギー昇華。
この目的は脳の強化に通じている。
そして全身の調和に至る。
全身を司る心こそが神々へと通じる道そのものである。