最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

きっぱりと独りで進む

私は大般涅槃経典と法句教典を読んでいる。

いわゆる最後と最初の経典である。

武漢コロナ以降は、法句経典をよく読んでいる。

このおかげでむしろ大乗の広がりがよくみえてきた。

法句教には、つまり、アホと付き合うなということが書かれているのではないだろうか。

アホは自他にひそむ。

アホを避けよと。

 

理を論じることに多数決でおさめることがよくある。

しかし、これは事の性質を歪めている。

理は本来多数決にはなじまないものであるからだ。

お釈迦様はいう。

独りで行けと。

理に則り独りで行けと。

アホとは縁を切れと。

多数から嫌がらせを受けるようならばきっぱり独りで行けばいい。

相手の数など問題ではない。

実は、この痛快さが大乗経典には乏しい。

大乗経典しか読んでいないと、下手をすると自分の理を無視して相手のことばかり考えてしまう。

それが躓きの石となり、理不尽に耐えることと利他の区別がつかずに魂を弱らせていくもととなる。

嫌な奴とは物理的にも精神的にも距離をおいてよい。

法句教にはむしろその方向で書かれている。

 

ならば、利他とはなんだろうか。

これは真摯さのことだと私は確信している。

人柄のようなものではない。

物事に向き合う姿勢そのもののことである。

堕落した者にとってはとにかくけむたいことであろう。

利他とは厳しさから生じる刹那の微笑みのようなものだ。

これが人々を照らすのだ。

利他とはお金や物を配って救うことではない。

ここまでは分かりやすいのだけれども、利他を精神的な支援である考えている人はまだまだたくさんいるのではないだろうか。

精神的な支援であると捉えてしまうと大乗経典自体が躓きの石となりかねない。

そうならないためには自分を正すために手段を選んではいけない。

あくまでそれが起点である。