昨晩は大陸から3年ぶりに帰国した友人と話し込んだ。
私は飲まないので飲んだとは書けない(笑。
学生時代の友達なので、あえて殺伐とした若者が多い居酒屋を選んだ。
彼は昔から身丈の幸せについてぶれない性格だった。
よい意味で普通でいいという確信といったらいいだろうか、上昇志向があまりなく、かといって希望がないというわけでもない、音楽が好きな、そういう性格だった。
だからだろうか、自分に家族ができれば家族を大切にするタフな男になっていた。
海外で子供育てている強者だ。
結局、勝者である。
大陸での3年間は大変だったそうである。
今でも景気は完全には回復していないとのこと。
中国人はメンテナンスの視点に欠けており作ったら作りっぱなしになる傾向があり、日本人とは発想が違い、その根は教育にあるといろいろ現地のことを教えてくれた。
日本はもうダメという声が大きいが、日本はよい国だと力説していた。
時代の濁流である。
彼と話していて、個人では踏み込み切れない時代の激しい流れがあることが改めて分かった。
日本はよい国であったとしても、そのよいとされていることは大きな時代に飲み込まれてしまうかもしれない状況にあるということだ。
どうだろう。
よいことと書いたみたが、よいことってなんだ?という気持ちになってくるところがあれば、それは素朴さが相対化され押し返されているとういことかもしれない。
我が子を愛するのと同じ様に祖国を愛する。
本来は理由などないのだから。
さて、これからの行き方である。
ここから先は友には語っていないことである。
これからは精神がより大切になる。
これは目に見えないところを具体的なものにしていくということだ。
精神論ではない。
精神である。
ここに生命を注ぎ込んでいくことが性エネルギー昇華の実体である。
結局、死を乗り越え死後を肯定し霊というものを肯定していくことがカギとなろう。
ここで科学主義と決別をする。
性エネルギー昇華を実践しても肉体は必ず滅びる。
銃で撃たれればあっさり死ぬのだ。
しかし、それは肉体の終わりでしかない。
「死んだら負け」という低次元の観念は唾棄したい。
ここを把持しておくことが大切だ。
肉体は終わっても精神は終わらずに次のあり方に進むのだ。
もちろん、死ぬまでは今を大切にするわけだが、瞑想作法として、俯瞰的に、常に仏教的な視点と霊界的な視点を用意しておくことは大切であると思う。
普段から読経をすることの意義はここにもある。
「死んでも負けない」。
これがこれからの時代において反旗を翻すような行き方として登場してくる。
よりさらに精神は精妙にそして堅牢なものになっていく。
肉体はいわば貴重な精神の器であるが、器ばかりに投資されてきた過去と決別し、器より貴重なものはやはり精神であると認識されるようになってくるに違いない。
生命の奥深さに迫っていく人々は少しずつ増えていくだろう。
私もその一人となりたい。