三昧を修するは心の寂静のためであるとされる。
暑さで外出することができない日はただ祈りに徹するということもありだろう。
心の寂静が乱されやすい状況である。
静かに過ごす中で祈りを磨くことの意味は大きい。
霊界で通用する型を日ごろから修練しておくべきである。
もし武漢コロナや猛暑に閉塞感だけを覚えるのならば、霊界の視点が欠けている。
つまり、肉体にとらわれ過ぎていると霊的な感性が弱まってしまうのだ。
霊的な感性が弱まると絶望感が強まってくる。
本来ならば月に一度は尊い法要に参座するなどして心機一転できるのであるが、今はそれが難しい。
それ故に読経修行こそが今まで以上に大切である。
これ以上に霊界で通用する基本を学べる方法はないだろう。
肉体は弱まり肉体の死はいずれ必ず訪れる。
その時に感謝と安堵のうちにあるか、ただの苦しみのうちにあるか、である。
嘘がつけない厳しさがそこにはあるに違いない。
霊的観点からすると心が疲れるのは思いやりが弱まっているからである。
何をするにしても相手の立場に立って行うことが疲労しない最大の秘訣である。
利他の精神こそが三昧の極であるように思う。
そこに無条件に立てた時、祈りも立つ。
肉体のみに執着すれば先はただ暗いだけである。
心(霊)を肉体の奴隷にしてはいけない。
霊的な視点を智慧として確実に加えることで先を明るくみることができるようになる。
祈りとはただ思っているということは全く違うのである。
祈りとは霊的に立つことである。
正しい祈りには支援もある。