最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

私も成長に執着したい

説教の時代は終わっている。

もし模範とすべきものがあるとすれば、それは肉体を通した実践でしかない。

そこには苦しみに耐えて進む相がある。

その相こそ共感に足る資格があるといえる。

 

心でどう思っているかということは実は論点でも何でもない。

心と体が一体としてこの物理世界で抵抗を生じた時こそが論点であり学びである。

そういう意味では思想学説そのものにはもはや価値はなく、思想学説に生きて初めて価値が生じる。

 

この物理世界は確かに制約そのものである。

しかし、この制約があるから学びがあるのだ。

呼吸を整えて挑んでいきたい。

 

テレビでサスケをみた。

いい番組だ。

一年の目標のために一年を使い切る姿勢。

そして、同じ目標を持つ者同士の励まし合いと涙に感動する。

それぞれの挑戦者がそれぞれの生活を持ちそれぞれの限られた条件のなかでベストを尽くしていく姿勢はまさに精進の模範である。

我々は結果だけに感動しているわけではない。

 

年末は掃除につぐ掃除である。

そしてそのなかで反省と目標を払い起こす。

我武者羅に突き進めば記憶がないような時期もあるものだ。

しかし、貫いてきたことがあるならば習慣の力によって蘇ってくる。

自分を取り戻せる。

 

生きることがそのままの死への準備となる。

この域にあることがゾーンに入るということだ。

これを目標としたい。

物理世界の制約を制約として嘆くのならば魂は磨かれない。

成長を楽しめ。

成長に執着しようと思う。