最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

闇にとどまる勇気

手相は確かに変わる。

今の私の手相には仏眼相、神秘十字、聖職紋が現れてきている(笑。

しかし、このような相に頼ってはいけない。

一喜一憂してはいけない。

要するに、真に大切なこととと手相とは関りはない。

 

真に大切なこととは定だ。

定なくして道はなく、結果、智慧も生じない。

負の感情が生じてもそれに飲み込まれないことが大切だ。

このブログでは負の感情から徹底して逃げない。

肉体がある以上、苦しみは必ず生じる。

苦しみが生じないように向かうことは苦しみを増すことに繋がるだけである。

 

夜、網戸に群がる虫たち。

あれと同じになってはいけない。

蛍光灯の偽りの光に希望を感じているのだ。

彼らはおそらく闇から抜け出る気になっている。

しかし、必死に網戸をすり抜けて蛍光灯に辿り着いたものの末路は、人間ならばよく知っている。

 

肉体の苦しみは夜の闇のようなものだ。

安直な希望のために出かけてはいけない。

そこに静かにとどまるならば必ず朝日と出会える。

死もひとつの変化にすぎない。

そう観ることが本当の智慧であろう。

癒えぬものを癒やそうとしてはいけない。

心の傷も傷として。

 

苦しい人間関係も同じである。

身内であればあるほどきついだろう。

よく分かる。

しかし、その闇も本質を見極めていけば、静かにしておればよいことが分かる。

自分自身のなすべきことを淡々と行う。

それが道を歩むということだ。

 

自分自身のなすべきことを淡々と行う。

これを達成するために肉体の節制に励むのである。

節制は過度の緊張からの解放をもたらす。

本当の希望というものは仏法を認識することである。

そして、その認識のもとに暮らす。

なるほど、それは独身の確立であろうか。

同じことを日々繰り返しても飽くことがない。

静かな幸福感、これがありがたいのだ。