最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

霊的な絆が定を支える

感情の濁流の中で忍辱行としての定である。

澄ました顔で涼しげにいくことのほうが稀であると思う。

定を目指すとき、やはり誰かのために祈れる方が力が出る。

過去に書いたが、私は葛西りまちゃんと船戸結愛ちゃんを毎日供養している。

事件を覚えているだろうか?

事件以来ずっと私は一日に一回夜念じている。

今では彼女達のおかげで読経修行が毎日できていると確信するのである。

たぶん彼女達から見ると私はちょっと情けないところが多いおじちゃんだろう(笑。

女々しかったり怒りっぽかったりちゃっかりしていたりと私は彼女たちに隠すことが出来ない(笑。

しかし、私はとにかく毎日念じることを続けているから、今では霊的な絆も生じ、なんとなくだが自分の娘たちのようにすら思えてくるものがある。

毎日きちんと、いや無様であってもやるべきことをやろうと進めるのだ。

彼女達の死は絶対に無駄ではないとそう言い得るように私が生きる。

ここに至って定と結ばれてくるように感じている。

 

荒れた時代になってきている。

今回の円安は本当にまずいと感じている人は多いのではないだろうか。

これにもし今激震災害が加わったとしたらどうなるか。

もはや地獄絵図としか言いようがない悲劇に直面したとしても、それはあり得ないことではないだろう。

貧しさからか、格差が縁となり人心も荒れてきている。

理不尽にクレームをつけられることも今後は増えてくるはずである。

そういう中にあっての目指すべき定である。

定とは覚悟の実践である。

苦しいに決まっているが、本当の地獄はもっと苦しいのである。

実りある苦しみを選ぶか、虚無のうちにある苦しみを選ぶか。

心が曇り視界がゼロになったときに愛してきた者たちに救われるのである。

私はこれをひしひしと感じている。

やってきてよかったなと思うからこうして書くこともできる。