最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

社会規範は個人の鎧でもある

社会規範が崩壊しつつある。

80年代は個性。

90年代くらいからは自分探し。

そして、今世紀に入ってからは人それぞれとか上から目線という言葉が流行り出すようになった。

浮かれ切っていたように思う。

 

社会規範の正体はなんだったのか。

ウクライナ戦争を通してアメリカやイギリスの影響力の低下を目の当たりしていると、率直に背筋が寒くなる。

民主主義や自由主義を掲げている国家群の面積よりもそれに反対する国家群の面積の方が大きいという視角的なインパクトだけでなく、独裁国家のもとに暮らす人々が50億以上いるという数のインパクトである。

攻められたアウトだ。

これはもう核を使う以外に防御出来ないのではないだろうか。

私は核を使用するリスクは西側に傾いてきているようにすら感じている。

 

民主主義や自由主義自体の概念は今でも私は最善だと考えている。

しかし、金融や資本主義が生み出した歪みがその正しさを乗り越えてしまったのが現在なのだろう。

富の偏在からくる格差社会

これはやはりまずい。

人々から他者と共感する機会を奪ってしまった。

社会規範が崩壊してしまうのは必然であろう。

思えば、ここ30年近くにおいて多様性という言葉に釣られて個人が目先の欲に走り絆を忘れてしまった。

多くの者にとって自分らしさに果てには貧困しかなかったのではないだろうか。

資本家はその間に稼ぐ仕組みをばっちり整えたのだった。

 

ウクライナ戦争が西側諸国のそうした不正義を暴き出している。

理想を押し通すことはもうできないだろう。

裏では汚いことをしてきているのだ。

そりゃ嫌われて当然なのだ。

これよりはせめて独裁よりはましであるということを示す程度である。

私はロシアにも中国にも加担はするつもりはないが、日本を含む西側諸国の嘘も見過ごすることはもうできない。

 

すでに社会規範は壊れてしまっている。

この事実を受け入れることが第一歩であると私は思う。

ゼロから育てていく。

結局、ここまで戻ることになるのではないだろうか。

個人は確かに大事だ。

しかし、個人を育む社会も大切なのである。

それを国家ではなく普通の個人が気づかないといけない。

社会のために個人が耐えるべきことは何か。

社会が個人に保障すべきことは何か。

それらをより明らかにしていくことである。

よく観察していきたい。

基本に帰れば、このプロセスを阻むものが本当の敵ということになってくるからだ。

せめて政治家くらいはまともであって欲しいと願う理由である。

このままでは本当に何もかもが一方的な状況になっていく。

貧困から徴兵という流れが私にはありありとイメージされている。