最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

恥をかきながら修行していく道

たとえば、値下げを主張された時にそれを拒否する。

こういう時はあまりかっこよくはいかないだろう。

なぜなら言い訳をしないといけないからだ。

しかし、これからの時代、大切なことはこのような局面に現れてくるだろう。

たとえば、頭を下げてお願いをすること。

そういうことが普通になっていく。

 

とらわれはない!などというのは嘘である。

心はむしろとらわれることを役目としている。

傷ついた時は痛みから逃げてはいけない。

これが修行である。

うまくかなかった今日を振り返る。

これが修行である。

 

人間は許す時には堂々とできる。

理解を示す時も堂々とできる。

道理の観点からしたらそういう時こそが晴れ舞台である。

しかし、そういうかっこいい時ばかりではやはり片手落ちということなのだろう。

私は出来ませんと断る時、道理の観点からすると様々な恥をかいているのだが、この恥こそが自我の深部の課題と関連している。

 

いろいろ値上がりがはじまっている。

対して給料はあがっていない。

民間人は需給のバランスから逃れることが出来ない。

とはいえ、詐欺的なふっかけに乗せられていちいち値下げに応じていたらあっという間に赤字になってしまう。

ストレスであるがどうしても戦わなければいけない。

 

私はこのように考えている。

金がすべてであると考えるとさもしくなる。

さもしくなると感じた時はたいてい金以外のことに頭がまわっていない。

金よりも大切なものを常に中心にしていくと金の動きのイメージができるようになって金の話がしやすくなってくる。

とはいえ、自分の生活が成り立たなくなるのではないかという怖れは仏の教えでも想定されているほどの難事である。

本物の不景気が到来しつつあることから、文字通り、一日一日が真剣勝負となるだろう。

金が稼ぎにくくなる。

この事態に対してどう対応していくのか。

民間事業主の修行者にとっては死と隣り合わせの最大レベルの試練となるに違いない。

 

意識を高く持つ事が恥をかくことへの嫌悪であるならば、それは偽スピリチュアル系である。

美味しい話しかしないような人の次に金の話をしない人は信用しない方がいいと私は思う。