最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

神々が近くなることは聖戦の時

今年の元旦は子供と一緒に近所の神社を巡った。

私の故郷の原点に回帰することができたような気持ちになりとても感動したことは前にも書いたと思う。

あの時の縁か、その神社の清掃の奉仕の役目が急きょ入ることになった。

ありがたいと思う。

何か援軍を得たような喜びがある。

 

仏の教えを行うことと神道の神様を尊重することは全く矛盾しない。

私を浄めていくことが仏道ならば、端的に神様を尊重していくことが神道ではないだろうか。

いや、ここで私は論争はしない。

ただ内に向けては仏道、外においては神道というイメージを私を持つに至っている。

 

清らかに生きたい。

誰しも可能ならばそうしたいだろう。

しかし、浄めることは精進の連続である。

苦しい。

一畳分の空間を死守せねばならないような日もある。

しかし、振り返ると、そうした経験こそが錬磨なのだ。

確かにそうである。

その結果において見通しと智慧を得るからだ。

 

ただ折れることがなかったのはなぜだろうか。

やはりどこかに守護がある。

それを認めざるを得ない。

私はいつも決まった数字をみる。

そのタイミングと回数はちょっと偶然とは言い難いものがある。

その度にふっと心の重みがとれるのだ。

一人きりでやっているわけではないことを思い出させてくれる。

 

祈りの場があることには感謝しないといけない。

感謝とは自己都合ではない厳しい道であるが、鍛錬の基礎である。

疲弊して腸が煮えくり返るような思いであったとしても神様の前にそのままであれるかどうか。

これはお願いではなく、ただ感謝の道となる。

 

自分よ、がんばれ。