最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

身口意を改めて整える

しばらく諸々整理の時代に入ったと感じている。

無論、最後まで向上を目指すが、その前に、何を今後の真の課題とすべきなのかという点を今一度しっかり考え直しておきたい。

武漢コロナがなければズルズルと先延ばしになってしまっていたかもしれない。

煩悩即菩提である。

禍を転じて福と為すといってもよいだろう。

 

使えるものと使えないものがある。

たとえば高級時計などは要らないものであった。

私は今10000円くらいの機械式のセイコー5を使っているが十分である。

月曜日に時間を合わせる作業すら味わいがある。

考え方次第である。

使えないものは処分していきたい。

 

腕時計は物の話であるが、思想の話でも全く同じである。

理解しておくべき本を改めて選定したい。

自説に責任を持って魂を込めていきたいと考えている。

自律していくことで身軽になっていく部分もあるだろう。

生にとって祈りにとって意味のないことから離れたい。

どこまで柔軟かつ堅牢なものに仕上げることができるか、楽しみである。

 

信心信仰を深める方向でここまできたことは幸いであったとしみじみと感じている。

各論ばかりで混乱する世の中にあって信心信仰は間違いなく総論の役割を果たしてくれている。

教えのために学問を軽んじてはいけないが、学問だけでは絶対に行き詰まる。

学問を智慧と結んで活かしていくことが大切だ。

 

結局、身口意を浄めていくことに集束する。

楽しかろうが苦しかろうが、これに反することはやらない方がいい。

一刻一刻を感謝で生きる。

智慧と繋ぐための工夫を示していくこと。

それが世の為人の為ということではないだろうか。