最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

草取りから得るもの

土と触れ合うという目的を達しつつある。

草取りが日常の一部になりつつある。

この暑さである。

きついものはある。

しかし、それも修練だろう。

肉体が天地と摩擦される。

それによって謙虚な心持になるからだ。

 

先週は久々に精神の危機を経験した。

具体的には書けないところであるが、感情が思わぬところから噴出し、心が割れたような苦しさの中にあった。

まるで大噴火のようだった。

油断はできないと改めて思った。

 

今は穏やかな心境だ。

ひとつ乗り越えたような清々しさがある。

 

草は次から次へ生えてくる。

丁寧に除草をすればかなり時間が掛かる。

かといって適当にやれば次の除草のタイミングがはやくなってしまう。

これは心の状態ととても似ている。

 

悪念妄想の根は適切に絶つべきである。

しかし、その深奥はよくみえないものである。

祈りで耕し、よく真理の光に晒していくことだ。

そうすることの連続で根に届くことがある。

しかし、それでも芽吹いてくるのが情念である。

先週の私が体験したように解決したと思っていたことでも何かしらの縁があれば噴き出してくる。

そうしたときはもはや格闘して打ち克つ以外に道はないかもしれない。

 

真言なりマントラなりいろいろあるが、それだけでは非力だと私は思う。

むしろ魔境に陥るもとになりかねない。

そもそもそういった念術では目の前にある鉛筆すら動かすことはできないのである。

 

観察と生活に根付いた現実的な実践に尽きると私は思う。

そのうえでの念術である。

祈りとは命そのものを正しい意思に基づいて動かしていくことであると私は思う。

 

打ち破りたいものものがあるならば、具体的な実行力で封じていく。

鬱陶しい人間関係があるならば、圧倒的な努力による実績で黙らせていくことである。

 

苦しい時こそスピリチュアルには頼ってはいけない。

振り返り私はそれを痛感している。

スピリチュアルなものは具体的な行動の先に置くべきなのだ。

草取りはいい。

そこをしっかり魂に刻むことが出来る。

手を動かさなければどうしたって草は抜けないのである。