最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

人権を隠れ蓑にする悪魔たち

老病死に対する恐れが差別意識の根幹にある。

たとえば老害、これも差別だろう。

しかし、正しく老いているものだけが智慧者であり、本能の赴くままに生きた者が力を失ったことで毛嫌いされるのは事の道理である。

この差別を禁じることができるのだろうか。

いや法的にはという反論がありそうだが、法的な保護というのは守るべき道義に対して行われている。

そこに道義があるのか。

女性差別男性差別も情欲が満たされたあとに問題が起こりやすい。

これも結局、病死の問題に通じている。

 

誰しも仏性を持つという点でのみ平等である。

平等があるのはここだけである。

その他はすべて差別の世界である。

これが自然状態なのだ。

 

違うことが素晴らしいという人がいまだにいる。

それは違う。

仏性という共通する性があるからこそ素晴らしいのである。

その性があるからこそ違いが違いにならずにいる。

違うことが素晴らしいならば野生の飢えた猛獣と共に暮らしてみろと言いたい。

できやしないのである。

同じ人間だからというのはもはや反論にはならないだろう。

違うから有史以前から戦争をしているのである。

同じ人間だからではない。

同じ仏性を持つが故である。

 

法的な文脈が意味を持つのは日本という国家が正常であるうちのみであるが、少し触れておくならば、人が辛苦に耐えられるのは仏性を覚知する努力をするが故であり、これこそが生きた個人主義を真に支えている。

誇りを持った個人とはそういう努力をしている。

これが私の観察である。

他者からの強制によっては人は現実を乗り越えていくことはできない。

魂にとって個人主義が必要なのである。

 

差別と叫ぶことのその先に何があるのか。

見つめ直さねばいけないことはこの一点といってもよいだろう。