最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

3.11に寄せて

3.11には触れておくべきだろう。

今でもyoutubeには当時の映像が多く残っている。

まさに目の前の光景に目を疑うような人々の声が残っている。

本当に一瞬ともいえるような短い時間にすべてを失ってしまったのだ。

あれから10年である。

NHKの特集で赤ちゃんを抱いてインタビューを受けていた若いお母さんはおそらく当時はまだ小学生から中学生くらいだったに違いない。

私には新しい命が輝いて見えた。

 

さて、明日は我が身である。

激流は津波といった災害とは限らない。

必ず来るのだ。

私の家には働いてないひきこもりの身内がいる。

親が死んだら私が面倒をみなければいけないのだろうか。

完全に8050問題の当事者である。

将来を悲観的にみれば私の心は暗い方へと引き込まれていくであろう。

これはもう人間的な発想ではどうにもならない障害だからだ。

親亡き後私は殺人者になる可能性がないとはいえないだろう。

 

私はこうしてブログを書いてはいるが、本質は非言論系でありたいと思っている。

世間的な希望や欲楽を満たすことはもはや目的にはなっていない。

仲間と人生を語り合う時期はもうずいぶん昔に終わっている気がする。

今はただ、そのように生きているか否かでしかない。

人生は理不尽に満ちている。

そのような人生の責任を負っていく主体であることの意味をよく思惟していくことが始めの一歩であった。

そして黙々と正しい道を目指しあきらめずに歩む。

そう、ふと思ったのだった。

今日も10キロ走ってきたが、培いたい体力は人生最後の一試合分である。

このために私は走っている。