仏教本を読んでいて思う。
昔の寺院はそれこそ地主でもあったり時の権力者から帰依を受けたりと事情が今とは全く違うのだ。
率直に言って生活の心配が庶民に比べると格段に少なくて済む場合が多いのではないだろうか。
そこが隠されている。
有名な寺の坊主の修行の書が歴史的価値を持つものとして残されているわけであるが、今の私にはその多くはインテリの書くらいのインパクトしかない。
学生時代はグッと惹きつけられたが、今は教養でしかない。
現代の寺院の坊主で戒律を徹底している者はどれだけいるだろうか。
教えを説いて布施を受けているということに対して十全の責任を果たしている坊主はどれほどいるだろうか。
ここが肝心なのだ。
歴史的権威で語られても感動できない時代に生きている。
どれだけ尊い経典でもあってもそれを語る者に相応しい実践がないならば誰も聞く耳を持たない。
現代とはそういう時代である。
いや、相応しい実践があっても非難されるのが現代である。
世界中の民衆が生活に苦しむ時代において宗教家の果たす役割はもうただ一つである。
相応しい実践以外にないだろう。
それはもうただ教えを言葉で語るというだけでは足りないということを意味する。
人々の帰依所となるような生き方に徹することを求められるのである。
そして、これからの時代はどれだけ山に籠ろうが滝にうたれようが解決できない課題が山積していくのである。
それに向き合えないならば修行する意味などないように私は感じている。