最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

思い出はまさに人生の宝である

子供が自分の卒業した小学校に通っている。

授業参観などで学校に行くと子供の姿に感動するだけでなく昔の自分の思い出も蘇ってくる。

胸にこみ上げてくる。

 

今という瞬間は二度と帰ってこない。

もしかしたら宇宙には不思議な仕組みがあるのかもしれないが、このように生きているうちはただ未来が開けているだけである。

こみ上げてきた思い出は宝だ。

陽だまりのような時代だった。

今だからこそそれが分かる。

 

皆それぞれの人生がある。

うまくいっている者もいればそうでない者もいる。

昔を懐かしむ余裕のない者もいるだろう。

分かっている。

しかし、あの時皆で一緒に笑顔だった者は、いつかあの頃を思い出すだろうと思う。

それは夏草の香り、花火の火薬のにおい、盆踊りの音楽、セミの鳴き声、何がきっかけになるかは分からないが、必ず思い出すに違いない。

そして、一様にありがとうという気持ちになるのだ。

 

 

人と会うのが億劫になるのは、自分にばかり関心があるからだ。

自分に関心が強ければ強いほど傷つきやすい。

物事に真摯に取り組むことだけに集中すれば、自分というものとの関わり方が自然になってくる。

そして、人のことを考えることができるようになるから相手を思う気持ちが生じ人と会っても緊張しなくなってくる。

 

いい思い出というのは一人では作ることはできない。

大切に思う人がいてはじめてできる。

途中嫌われてもいい。

自分が大事に思えるかが全てである。

そうして通じていったときに心が通うことを経験できる。

これは小学生で経験することである。

それが大人になってからの宝となる。

 

 

(仮にもしこの経験がないとしても布教がある。布教を通して手に入れることができるから安心して欲しい。)