最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

確かな先人が残してくれた大いなる遺産を今こそ活かす時

毎日新たな感染情報が入ってくる。

もういつどこで感染してもおかしくないといった感じになってきた。

北海道で子供が感染してしまったことには胸が痛む。

 

強い人はこういう場合でも日常を簡単に崩さない。

病床にあっても死ぬ直前まで数式のチェックをする数学者の話を聞いたことがあるが、なかなかできるものではない。

没頭できることある人は幸せである。

没頭することはひとつの芸術三昧といえるのであり、これは祈りに通じるものがあるのではないだろうか。

信心信仰は素養があるか否かというより、体験そのものであるから、神仏を意識せずして神仏と共にある人というのは、ままある。

その数学者もそうだが、尾畠春夫さんももしかしたらそういう人かもしれない。

 

ただ、普通は困難に直面すれば狼狽する。

凄い人になろうと力を欲するのではなく、気付いた時に一つ一つ修正するだけでよい。

これをどれだけ丁寧にできるかで祈りは決まる。

雑な人は伸びない。

ゆっくりでも着実な人の方が伸びる。

 

我々が知っている日本はこれから壊れ滅んでいく。

しかし、それは再生のための一歩である。

時代はまさに聖戦に突入した。

欲望に基づいた理想では全く通用することはない。

一つ一つ祈りと合致するものと合致しないものを分けていこう。

どれだけ小さなことでも侮ってはいけない

たとえばスマホの機能ひとつにしても、よいものは残しダメなものは消そう。

これが断捨離である。

 

開拓のための智慧はすでにある。

ここを忘れてはいけない。

何もかも手探りからというわけではないのだ。

確かな我らの先人達が残してくれた大いなる遺産はある。

それを開ける者が今はまだ僅かであるというだけのことなのだ。

このブログに到達し内容を理解できる者は相当なレベルにあるといって過言ではない。

このブログに書いた一連の智慧は私の所有にかかるものではないので、そう言える。