最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

生還してこそである

子供の勉強にタブレット学習に導入されるそうだ。

次の休校に備えるためであるらしい。

教師が子供の学力の到達度をネットを利用して把握する仕組みを利用するとのこと。

これはやむを得ないだろう。

 

武漢コロナのためにいろいろ強制的に社会的な仕組みが変わってきている。

そこに目をつけて儲ける仕組みを作る者は稼ぐことができる。

しかし、だからなんなのだろう。

それが社会の進化といえるのだろうか。

 

その仕組みに出資した者だけが大金を手にする。

真摯に事態に協力した民間人のほとんどは無償という現実がある。

これで社会の未来の理想を語ってよいのだろうか。

 

ともあれ、こういう鬱屈するような思考は教えがなければしない方がいい。

教えがないならば黙っているが吉である。

教えのない評論家なり学者なりが耐えきれずに政治に口を出すようになるとその説には次第に憎悪が宿り徐々にいずれ使い物にならなくなる。

論理はシームレスではない。

人間の認識が不完全である以上必ず弱点がある。

 

結局、これからの時代においては、正邪を言葉にしてなおかつそれにとらわれないためには教えを持つしかない。

教えを持った者のみが地獄から生還できるのである。

ある意味、教えとは武具のようなものでもある。

 

社会の不正に対して黙り込んでいることは正しくはない。

しかし、正しさにとらわれて憎悪で心を闇色に染めることでは意味がないのだ。

多くの人がここを体験していないかもしれない。

生還してこそである。

仏道は絶対に学ばなければいけない。