最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

瞑想とは許すことである

今住んでいるところは幼い頃から育った場所である。

静かに目を閉じ耳を澄ましていると鳥のさえずりだの木の葉のかすれ合う音だのが聞こえてきて徐々に時間を超え始める。

窓から入って来る風の香りもあの頃のままである。

生きていると感じる。

そして、何もかもを許さざるをえないようなところまで戻ること出来る。

 

和解ということはできないかもしれない。

それは相互の互譲を意味するからだ。

相手は許してくれないかもしれない。

しかし、自分自身は相手を許していくべきだ。

 

迷っている分だけ許せない。

これは私の出したひとつの結論である。

固執の原因は迷いである。

 

神仏に近くて遠い人がいる。

私はどちらかというとそういうタイプであった。

許すことで初めて自由を得る事が出来るのであるが、なかなか許せなかったのである。

 

生を自由にすることが教えの目的である。

教えの文言をいかに繰り返したとしても生が自由を得ていないならばそれは教えとは無関係である。

教えは一言でいえば常に許せと教えているのだ。

真の勇猛心を奮い立たせろと教えているのだ。

 

許すことが出来れば静かに目を閉じたとき温かい懐かしさが今に蘇ってくる。

神仏のご慈悲にも触れることもできる。

節制にも角がとれ昇華という表現がふさわしくなる。

 

形式ではないのだ。

許して整うのである。