有るようで無いし無いようで有る。
言葉においてはこうとしか言いようがない。
このような時代にあっても弱肉強食の論理にこだわる人達はまだ本能的に余裕があるのであり、如来常住の温かさは理解できないだろう。
人はいつ変われるのか。
それはそれぞれの苦境に陥った時以外にないのである。
ここは重要である。
本人の落胆に対して彼を取り巻く霊団はむしろそれを歓喜しているかもしれない。
なぜなら正しい道に戻れるチャンスが到来したからである。
ただし、邪悪な者はここでも誘いを忘れない。
宗教は人の弱みにつけ込むと吹聴するのである。
さて、変わろうと決心し教えに関心を持てたとしても最初は自分自身を整えたり自分自身の能力向上に努めたりすることに終始してしまうだろう。
中には超能力への憧れを抱く者もいるかもしれない。
神通というものは経典にも書かれていることであり、確かにひとつの特別な能力といってもいいかもしれない。
しかし、力を求めるための行というのは教えの道から外れる行為であり邪道であることは最初のうちに知っておくべきことだ。
すなわち、仏道においては特別な能力は必須ではない。
普通でよいのだ。
むしろ、普通を極めるといってもよいかもしれない。
それは智慧による解脱である。
教えにおいては今ある器の限りにおいて精進する姿勢こそが基本なのである。
そして、その器をさらに広げようとする精進には必ずご加護がある。
これはどういうことか。
今できるとか今できないとかいった能力的なことは全く関係ないということである。
仏道を歩むために特別な準備は不要ということである。
足りないと感じていても決意してやれる限り精進することでよいのだ。
なぜなら、事を成すとか成さないとかは御仏の力によるものだからである。
ここはとても大切な点である。
失敗を恐れる必要は全くないと思えた人は有望だ。
教えにあれば恥も見栄もないのである。
職を失おうが試験に不合格になろうが全力で取り組んだ結果ならばそれがその人にとって一番良い結果であったということである。
仏意とよく言われるが、その意味は必ずあとになって分かってくる。
自分に対するとらわれ、すなわち判断とか正義といったものから離れることだ。
経典をどれだけ研究したとしても実践していかねば意味がない。
信じて行って解かる。
まさにこの順を辿っていくからである。