最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

神仏と向き合うとは常に励むこと

毎日ニュースはみざるを得ない。

これはこの社会に生きる者の宿命である。

社会から遠ざかれば仕事もできない。

さて、マスクもどうやらせき止めていた連中がいたようだ。

それを吐き出しはじめて今3000円くらいのものが流通し始めている。

やはりイラっとする。

しかも新大久保のドラッグストアの話となれば様々連想もある。

パチンコ店は永久に自粛しろとも思う。

どのみち金になることならばなんでもするような連中はどこかで繋がっているはずだからだ。

日本人には絶対にみせないコミュニティがあるはずなのだ。

 

しかし、散らかったままにすることはできない。

朝夕の読経が大切であることはもちろんであるけれども、普段から意識は常に神仏と向き合うことに傾注するべきだ。

時代が混乱すればマインドセットの調整は必要に応じていかねばいけない。

お釈迦様の最後の遺された言葉が、怠らず励めというものだった。

移ろいゆくなかでは不断の精進が必要なのだと私は理解している。

怒ってもよい時はあるだろう。

しかし、そのあとが大事なのだ。

 

とにかく神経にスタミナがなければいけない。

それは命を大切にすることとほとんど同義であるといってよいのではないだろうか。

修行においては必須である。

日々実感している。

神経衰弱に陥ってしまっては仏性を垣間見ることすら不可能であるからだ。

性エネルギー昇華の実践は伊達ではない。

心身に活力が漲っていることは本当に有り難いことだ。

教えと共にある厳格な禁欲こそが、もしかしたら人類がとりえる最後の一手ということなのかもしれない。

 

ひきこもりの高ぶりではないのだ。

現実の交渉と打開があってこその性エネルギー昇華の実践である。

誹謗や中傷を浴びせらながらも自らの進むべき道を失ってはいけないのだ。

一人で座して瞑想すること自体で完結するようでは菩薩道にはほど遠く神仏と向き合ったことにはならないのではないだろうか。

挫けそうになることもある。

しかし、常に励むしかないのだ。