最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

呼吸を正していこう

この社会をひとつの修行場とし、しかもそこでお金を稼ぐということは、時に利己的な姿を晒すということでもある。

払わない人に払ってくださいと言わなければいけないことはある。

そこに社会的な正義を回復するための要素はあるとはいえ、やはり相手を責めるという個人的な行為でもあるから、理屈的なことは別としても、教えに反するものはある。

信心信仰の観点からすると、これは局部を晒すことより恥ずかしいことではないだろうか。

 

外科手術が傷害罪にならないのは医療目的であることが理由であるように、お金を稼ぐということに唯一理由を与えることができるとしたら、正しい目標のため以外に使わないという実践のみである。

この社会で生活するためにはお金が必要であるから、私は持戒の意味をそのような線上に理解している。

 

破廉恥犯が増えているのは、利己的な衝動の結果の姿である。

ただ、そういう性は人間も動物である以上誰にでもある。

それを踏まえたうえで、自らの思いと行いを律していくのが日々の一刻一刻の修行である。

 

常に人に対して温かく、誤解を受けてもそれを気に留めることもなく、相手の心を慰める。

人を許すということを利己的な衝動は絶対に許さない。

私は死ぬまでにこの衝動を克服したい。

一世一代の魂の大掃除である。

初心に帰るように祈り、教えを語っていきたい。